グルジア父LAU-DZHEN-DZHAU(劉峻周)中国側記載 参考メモ①

【刘峻周】
刘峻周(1870年-1939年)祖籍湖南,客籍广东高要。中国茶叶专家。格鲁吉亚种茶创始人之一。
生平
刘峻周早年逃荒来到汉口,被同宗祖父辈的刘氏茶坊第37代传人、茶商刘运兴收留,在汉口刘氏茶坊当学徒。1883年,俄商从湖北羊楼洞购买了大批茶籽、茶苗,种植在克里木的尼基特植物园内。但因土壤、气候、水质条件不适宜种茶,茶树长势不良。俄商乃改从中国引进种茶、制茶人才。光绪十三年 (1887年),刘峻周到宁波茶厂学技术。1888年,俄国皇家采办商波波夫到中国选购茶叶,结识刘峻周,常询问他茶叶种植和加工问题。波波夫邀刘峻周和他到俄国生产茶叶。
清朝光绪十九年(1893年)十月十三日,刘峻周和波波夫带着采购的数千公斤茶籽、数千株茶苗,以及12名茶叶技工从宁波出发,经广州、马六甲海峡、印度洋、红海、苏伊士运河、地中海、爱琴海、黑海,最后抵达俄国格鲁吉亚阿扎里亚的巴统港。刘峻周和波波夫率领中国茶叶技工在格鲁吉亚阿扎里亚黑海沿岸的巴统地区种植80公顷茶树,筹建波波夫茶厂。经过三年试种取得成功,生产出第一批红茶。三年期满后,受波波夫之托,刘峻周回中国又选一批茶籽,于1897年5月携全家回阿扎里亚,在恰克瓦(格鲁吉亚语:ჩაქვი,距离巴统14公里)继续种茶,茶园渐渐扩大,并且按中国形式开办茶厂。1900年,该厂生产的茶叶在巴黎世界展览会获得金质奖章,引起俄国政府注意。1901年,在俄国农业部长叶尔莫洛夫推荐下,受俄国政府邀请,刘峻周任恰克瓦皇家庄园茶厂主管,第一年便获丰收,此后产量逐年递增,后来年产茶2000磅。此后经他建议,俄国当局创办茶叶工艺学校。1909年,获得俄国政府授予“斯坦尼斯拉夫三级勋章”,成为未取得俄国国籍而获授勋的第一位中国人。1912年,在“俄罗斯亚热带植物展览会”上,刘峻周等人生产的茶获大会奖状。
1904年夏,列宁到格鲁吉亚寻访斯大林等革命者时,和斯大林一起拜访了刘峻周。后来,刘峻周托斯大林向列宁转交了3万卢布的活动经费。俄国十月革命后,苏俄政府重视茶业,刘峻周任国营茶商经理。列宁曾两次约见刘峻周,列宁提出苏俄人自办茶厂,中断苏俄同中国的茶叶贸易,并希望刘峻周加入苏俄国籍。1924年10月13日,获苏联政府授予劳动红旗勋章。格鲁吉亚《东方曙光报》刊登的一篇文章赞扬刘峻周是“伟大的中国和格鲁吉亚人民的光荣儿子”。
刘峻周被誉为格鲁吉亚种茶创始人之一。格鲁吉亚黑海沿岸漫山变得都是茶林,所产的“刘茶”便是以刘峻周的刘姓命名。刘峻周在格鲁吉亚开创的茶叶种植及加工业不断发展,到1990年代中期共有6.23万公顷茶园,年产量超过50万吨,占原苏联地区茶叶产量的95%。格鲁吉亚的茶叶除了供应苏联各加盟共和国之外,还出口到土耳其、德国等地。格鲁吉亚国家档案馆至今仍收藏着刘峻周当年写的报告。刘峻周在恰克瓦办公的地方,如今是格鲁吉亚科学院茶叶科技研究所。
刘峻周在格鲁吉亚工作30多年,一直为中国国籍。1924年底,苏联驱逐侨民,所有未加入苏联国籍的侨民都将被驱逐出境。斯大林亲自约见刘峻周,要求他加入苏联国籍,但刘峻周未答应。1925年,刘峻周携全家回中国,在黑龙江省哈尔滨定居。回中国前,刘峻周赠给巴统博物馆的多张照片和一个佩戴32年的象牙小圆球,至今仍收藏在巴统博物馆。
刘峻周回国时,本想携全家回广东,但儿子刘绍周(刘泽荣)当时已定居哈尔滨,于是刘峻周1925年回国后也到哈尔滨定居。在哈尔滨,刘峻周开始养马,并经营赛马。
1939年,刘峻周在哈尔滨逝世。
家庭
刘峻周的5个孩子少年时代都在黑海沿岸度过,接受当地教育。
◾长子:刘泽荣,曾代表中国工人阶级出席1919年3月举行的共产国际第一次大会、1920年7月举行的第二次大会,曾三次见过列宁。列宁在他的身份证上亲笔写下“请苏维埃各机关团体给刘泽荣各种协助”。刘泽荣晚年任中华人民共和国外交部顾问。曾任商务印书馆编辑,编有《俄华大辞典》一书,1971年逝世。
◾二子:刘维周,兰州中苏友好协会副秘书长、兰州师范学院教授,1975年逝世。 •二儿媳:刘媛娜,格鲁吉亚人。
•孙子:刘光杰,刘维周和刘媛娜之子,北京师范大学俄语系教授。
•孙子:刘光彦,刘维周和刘媛娜之子,曾在大学教授俄语。
•孙女:刘光文,刘维周和刘媛娜之女,1959年离开中国留学格鲁吉亚第比利斯,后成为格鲁吉亚籍画家,任格中友协会长,第比利斯自由大学教授,2004年出版格鲁吉亚文《刘峻周传》。
◾三女:刘美芳,在北京教俄文,1985年逝世。
◾四女:刘阿丽,兰州大学俄文教研室主任,1970年逝世。
◾五女:刘姗姗,兰州西北师范学院俄语教授。1986年76岁。

【劉峻周】
劉峻周(1870~1939年)本籍湖南省、住所広東省高要。中国茶専門家。グルジア茶創始者の一人。
生涯
若い頃、飢饉のため避難して、漢口(現在の武漢市の一部に当たる)の父方親戚茶房第37代目茶商劉運興に身を寄せ、劉氏茶坊の弟子となる。1883年、ロシア商が湖北省赤壁羊楼洞で大量の茶種、茶苗を購入して、クリミア半島ニキータ植物園内に栽培を試みたが、土壌、気候、水質条件が茶の栽培に適当でなく、茶樹の生育は不良に終わった。このようなことから、中国の製茶栽培技術者が求められていた。光緒13年(1887年)、劉峻周は寧波茶廠で技術を学ぶ。1888年、帝政ロシアの買付商ポポフは中国で茶葉を購入した際、劉峻周と知り合い、茶の栽培や加工について尋ね、ロシアに勧誘する。
清朝光緒19年(1893年)10月13日、劉峻周とポポフは茶種数千㎏と茶苗数千株、製茶技術者12名を調達、寧波から出発して、広州、マラッカ海峡、インド洋、紅海、スエズ運河、地中海、エーゲ海、黒海を通過して、ついにグルジアアチャラのバトゥミ港に到着した。劉峻周とポポフはグルジアアチャラ黒海沿岸バトゥミ地区に技術者を率い80ha茶樹を植え、ポポフ製茶工場を建設。3年後、最初の紅茶が生産される。3年の満期後、ポポフの依頼を受け、劉峻周は帰国して大量の茶種を選び、1897年5月家族を連れてアチャラに戻り、チャックワ (グルジア語:ჩაქვი、バトゥミより14km)に茶を植える。茶園はどんどん拡大し、さらに中国式製茶工場が建設された。1900年には工場が生産した茶葉がパリ万博博覧会において金賞を受賞、ロシア政府の目にとまる。1901年、ロシア農業部長の推薦で、ロシア政府の招聘を受け、チャクワ皇家荘園製茶工場の主管となる。初年度から豊作とし、以後生産量は年々増加、年産2000ポンド。劉峻周の提案で、当局によって技術学校が設立される。1909年、ロシア政府よりスタニスラフ勲章を授与、ロシア国籍を有していないのに叙勲した最初の中国人となる。1912年、“ロシア亜熱帯植物展覧会”で劉峻周らが生産した茶が大会賞状を獲る。
1904年夏、レーニンがグルジアにスターリンら革命家を訪ねた際、スターリンと共に劉峻周を訪問した。こののち、劉峻周はレーニンのために3万ルーブルの活動資金をスターリンに託している。十月革命後、ロシア連邦共和国政府は茶業を重視、劉峻周は国営茶商責任者に就任。レーニンは二度峻周と会って、自国で製茶が行われるなら、中国との茶葉貿易を中断できるとし、劉峻周にソビエト国籍取得を希望した。1924年10月13日、ソビエト連邦政府より労働赤旗勲章を授与される。グルジア《東方曙光報》は劉峻周を中国とグルジアの偉人と称えた。
劉峻周はグルジア茶創始者の一人と称えられている。グルジア黒海沿岸の山々は一面の茶畑に変わり、ここで生産される“劉茶”は劉峻周の姓から命名された。劉峻周がグルジアで始めた茶は絶えず発展し、1990年代中期、6.23万haの茶園年間生産量は50万t超、旧ソビエト茶葉生産量の95%を占めた。グルジアの茶葉は、ソビエト連邦各加盟共和国以外、トルコ、ドイツなどにも輸出された。グルジア国家文献館は現在も劉峻周が当時書いた報告書を保存している。劉峻周がチャクワで執務した場所は、現在グルジア科学院茶葉科学技術研究所となっている。
劉峻周はグルジアで中国国籍のまま30年以上の長きにわたって働いた。1924年末、ソビエト連邦は居留民を駆逐、ソビエト連邦国籍未加入の居留民はすべて出国させられた。スターリンはみずから劉峻周と会って、帰化を勧めたが劉峻周は応じなかった。1925年、劉峻周は一家を連れて帰国、黑龍江省ハルビンで定住した。帰国前、劉峻周がバトゥミ博物館に贈った何枚もの写真と32年つけていた象牙の小圓球は今なおバトゥミ博物館に収蔵されている。
一家は広東へ帰る予定だったが、息子劉紹周(劉沢栄)がハルビンに住んでいたため、1925年帰国後ハルビンに定住した。ハルビンで、劉峻周は馬を飼い、競馬を経営した。1939年、ハルビンにて逝去。
家族
劉峻周の子供5人は黒海沿岸で青春時代を過ごし、現地教育を受けた。
長男:劉沢栄、中国労働者階級を代表して1919年3月に行なわれたコミンテルン第一回大会に出席、1920年7月に行なわれた二回目の大会では、レーニンと三度目の対面を果たした。レーニンは彼の身分証に自筆で“ソビエト連邦各機関団体は劉沢栄に協力すること”と書いている。晩年は中華人民共和国外交部顧問を拝命、商務印書館で『俄華大辞書』編集の任に就き、1971年逝去。
次男:劉維周、蘭州中ソ友好協会事務次官、蘭州師範学校教授、1975年逝去。
次男夫人:劉媛娜、グルジア人。
孫:劉光傑、劉維周と劉媛娜の子、北京師範大学ロシア語教授。
孫:劉光彦、劉維周と劉媛娜の子、大学でロシア語を教えた。
孫娘:劉光文、劉維周と劉媛娜の娘、1959年にグルジアトビリシに留学、後にグルジア籍の画家、グ中友好協会会長、トビリシ自由大学教授、2004年グルジア語版《劉峻周伝》出版。
三女:劉美芳、北京でロシア文学を教え、1985年逝去。
四女:劉阿麗、蘭州大学ロシア文学研究室主任、1970年逝去。
五女:劉姗姗、蘭州北西師範学校ロシア語教授。1986年76歳。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次