グルジア父LAU-DZHEN-DZHAU(劉峻周)中国側記載 参考メモ②

【刘峻周:格鲁吉亚的”茶叶之父”】
发布日期:2007/6/15 人民政协报
在独联体茶叶主产国格鲁吉亚,人们习惯将当地的红茶称为“刘茶”,以表示对将中国茶叶传到格鲁吉亚的茶叶专家刘峻周的纪念,刘峻周更被尊为格鲁吉亚的“茶叶之父”、“红茶大王”。
格鲁吉亚的茶叶源于宁波,遗传基因中应该与宁波茶叶多有相同。清光绪十九年(1893),由正在宁波茶厂担任技术员的刘峻周,带领宁波茶厂的12位同事,将产于宁波的茶苗、茶籽带到格鲁吉亚。
到宁波茶厂学技术
刘峻周(1870—1941),祖籍湖南,客籍广东高要。早年逃荒到汉口,被同宗祖父辈刘氏茶坊37代传人、著名茶商刘运兴收留,在汉家刘氏茶坊学徒。他舅父也是一位茶商,常到杭州、宁波等地采购茶叶,约光绪十年(1884),15岁的刘峻周随舅父到宁波学习茶艺,管理茶园。他天资聪颖,勤奋好学,全面学习采、制、种等技术。清光绪十四年(1888),经常往返于中国的俄国皇家采办商波波夫到宁波选购茶叶,结识了年轻英俊、热情友善的茶叶技工刘峻周。波波夫很快对这位青年人产生了好感,经常向他询问有关茶叶种植和加工的问题,刘峻周总是非常简洁易懂地做答,波波夫非常满意。
据史料记载,从6世纪开始,俄国人就通过陆上、海上从中国引进茶叶,并逐渐成为中俄贸易中的大宗商品。由于俄国绝大部分领土地处亚寒带气候区,不适宜种植茶叶,至清朝中叶才开始从中国购买茶籽和茶苗,试图发展茶业。当时俄国的藩属国、地处欧亚交界黑海沿岸的格鲁吉亚巴统、高加索地区,属于亚热带气候,适宜种茶。1883年后,俄国多次引进中国茶籽,在该地栽培茶树。1884年,索洛沃佐夫从汉口运去茶苗12000株和成箱的茶籽,在查瓦克、巴统附近开辟一小块茶园,由于缺少技术,栽培大多失败。
除了采购茶叶,从中国引进茶苗、茶籽也是波波夫的重要使命。因此他很希望刘峻周能跟他去俄国发展茶叶生产。去远隔万里的异国他乡,当时年仅19岁的刘峻周,担心自己太年轻,技术有限,没有轻易答应。此后数年,波波夫一直没有放弃,每次来宁波都与刘峻周友好相处。5年之后的光绪十九年(1893),当波波夫再度说服刘峻周跟他去俄国时,技术较为熟练、羽毛初丰的刘峻周,同意冒险去海外闯一闯事业。他向波波夫提出,由他组织几位要好的技工一同前往,波波夫非常高兴。
经“海上茶路”到格鲁吉亚
刘峻周和波波夫在宁波采购了数百普特(1普特为16.38公斤)茶籽和数千株茶苗,偕同另外12名茶叶技工,选择海路,从宁波南下广州,由广州沿南海经马六甲海峡至印度洋,再从红海经苏伊士运河至地中海,渡过爱琴海、黑海,抵达格鲁吉亚巴统港(俄驻格军事基地)。
这条茫茫的“海上茶路”,历时数十天,其艰难困苦可想而知。还要保护数千棵茶苗存活,可见刘峻周和他的同事们行前做了充分准备,这些茶苗都是带着泥土的,并有足够的淡水定时浇灌。如果说唐代中国茶叶、茶文化从宁波东传日本、高丽,开创了中国古代宁波的“海上茶路”;那么,刘峻周则开创了近代宁波至格鲁吉亚、俄罗斯乃至整个独联体的另一条“海上茶路”。
种茶旗开得胜
在格鲁吉亚,波波夫把刘峻周一行安排在高加索、巴统地区试种茶叶。第一期订了3年合同,以刘峻周为首的中国茶工种植了80公顷茶树,筹建波波夫茶厂,正式开始茶叶生产。3年后合同期满时,从宁波带去的茶苗和茶籽已在当地的红土山坡上生根安家,一垅垅茶树青翠嫩绿,郁郁葱葱,生机勃勃,茶厂也初具规模,他们按照当地的饮茶习惯生产出第一批红茶,品质上佳。
旗开得胜,也使以刘峻周为首的中国技工们深深迷恋上这块土地,他们决定回国带家眷在此安家,继续发展茶业。波波夫又嘱托刘峻周继续招聘一些中国技工,刘峻周高兴地答应了。1897年,刘峻周第二次带领12名技工,携带家眷,带着从国内选购的大量优质茶苗茶籽,回到巴统。在离巴统14公里的恰克瓦,他们辛勤劳作,试种新茶,但由于广东茶苗水土不服,生长不是很好。经过反复试验,终于成功培育出适合当地种植的茶树品种,种植面积达到150公顷,并建起第二座茶叶加工厂。在1900年巴黎世界博览会上,在中国茶叶缺席的情况下,刘峻周送评的“刘茶”为波波夫茶厂赢得了金质奖章。
格鲁吉亚在1990年代中期鼎盛时期,曾拥有6.23万公顷茶园,年产量超过50万吨,占前苏联地区产量的95%,除供应独联体国家外,还出口土耳其、德国等地。
获前苏联“劳动红旗勋章”
鉴于刘峻周在茶业上的杰出贡献,1909年沙皇政府授予他“斯达尼斯拉夫”三等勋章。1918年,土耳其军队占领巴统,刘峻周率领工人武装保卫茶厂,坚持斗争两天两夜,使茶厂全部财产得以保全。1923年,在刘峻周工作满30年之际,前苏联政府授予他“劳动红旗勋章”。
1924年,由于苏联政府要求所有外国侨民都加入苏联国籍,而刘峻周不愿这样做,举家离开格鲁吉亚返回广州,后定居哈尔滨。格鲁吉亚政府把刘的住所辟为“茶叶博物馆”作为纪念。

【劉峻周:グルジア茶の父】
発行:2007.06.15 人民政協報
CIS諸国茶葉生産国グルジアで人々は紅茶のことを“劉茶”と呼ぶ。それは、中国の茶をグルジアに伝えた茶専門家劉峻周に因んだもの。劉峻周はグルジアの“茶葉の父”、“紅茶王”とされている。寧波を起源とするグルジア茶は、DNAには寧波の茶葉と類似点が多いに違いない。清朝光緒19年(1893年)、寧波茶廠で技術者をしていた劉峻周が、12人の同僚を率いて、寧波の茶苗と茶種をグルジアにもたらした。
寧波茶廠で技術習得
劉峻周(1870~1941)、本籍湖南、住所広東高要。若い頃に飢饉のために漢口(現在の武漢市の一部)に逃げ、父方の親戚である劉氏茶坊37代目、著名な茶商劉運興に身を寄せ劉氏茶坊の弟子となる。母親の兄弟も同様に茶商で、常に杭州、寧波などの地で茶葉調達しており、光緒10年(1884年)15歳の劉峻周は伯父について寧波に赴き製茶技術や茶園管理を学んだ。清朝光緒14年(1888年)、中国を頻繁に行き来していた帝政ロシアの買付商ポポフは寧波で茶葉を購入した折、若く親切で友好的な製茶技術者劉峻周と知り合い、茶の栽培や加工に関する質問をすると非常に簡潔でわかり易く答える若者に対する好感を深めた。史料によると、6世紀からロシア人は陸路、海路を通って中国から茶葉を購入しており、しだいに貿易の中心的商品になったという。ロシア領土の大部分は亜寒帯気候区に位置し、茶樹を植えるには不適当であったが、清朝中期より中国から茶種や茶苗を購入して、茶業を試み始めた。当時ロシアの属領国、ヨーロッパとアジアが交わる黒海沿岸のグルジアバトゥミ、コーカサスは亜熱帯気候に属し、茶の栽培に適していた。1883年以後、ロシアは何度も中国茶種を導入して、そこで茶樹栽培を行った。1884年、漢口(現在の武漢市の一部に当たる)からの茶苗12000株と茶種を、チャワク、バトゥミ付近で開拓した小さな茶園で試みたが、技術不足のため大部分が失敗に帰した。茶葉調達以外、中国から茶苗、茶種を導入することがポポフの重要な使命であった。そのため、劉峻周にロシアで茶葉生産発展をと望んだのである。遥かかなた異国の地に向かうにあたり、当時19歳の劉峻周は自らの若さを心配した。技術は未熟で、簡単に応じることはできないと。ポポフは何年もあきらめず、寧波を訪れるたびに劉峻周と友好的に付き合った。5年後の光緒19年(1893年)、ポポフに再度説得された劉峻周は危険を冒して海外で事業を行う誘いに応じた。良い技術者を一緒に連れていく提案に、ポポフは非常に喜んだ。
“海のティーロード”からグルジアへ
劉峻周とポポフは寧波で茶種数百プード(ロシアの重量単位1プードは16.3㎏)と茶苗数千株を購入し、別に12名の技術者と共に海路、寧波から南下して広州、広州から南シナ海に沿ってマラッカ海峡、インド洋、紅海からスエズ運河、地中海、エーゲ海、黒海を通過してグルジアバトゥミ港 (ロシア駐グルジア軍事基地)に到着した。数十日間に渡る広々とした“海のティーロード”、数千株の茶苗を生かして届けるとめに劉峻周と同僚たちは事前に十分な準備をしていた。苗には全て泥土をつけて、十分な水を定刻に流し込んだのだ。唐代、中国茶とその茶文化は寧波から東は日本、高麗に伝えられ、古代寧波の“海のティーロード”を切り開いた。劉峻周は近代寧波からグルジア、ロシアないしは全CIS諸国に至るもう一本の“海のティーロード”を切り開いたと言える。
茶栽培成功
グルジアで、ポポフは劉峻周一行をコーカサス、バトゥミでの茶葉栽培の試みにむかわせた。第一期3年契約では、劉峻周を中心として80haに茶樹が植えられ、ポポフ製茶工場が建設され、茶葉生産が正式に開始された。3年後の契約満期時には寧波からもたらされた茶苗と茶種はすでに現地の赤土の山斜面に根をおろし、鮮やかな緑は生き生きと茂り、製茶工場は規模を備え、現地の喫茶習慣に合わせて生産した最初の紅茶の品質は悪くなかった。成功を収めたことによって、この土に対する愛情が深まった劉峻周や中国人技術者たちは、家族を連れてこの地に定住して継続して茶業を発展させることを決心した。中国からさらに技術者を招聘して欲しいというポポフの要請に劉峻周は快く応じた。1897年、劉峻周は再び12名の技術者を率い、家族と共に、国内で購入した優良な茶苗茶種を大量に携えてバトゥミに戻った。バトゥミから14km離れたチャクワでの新しい茶の試みは、広東の茶苗に水土が適さず、成長は思わしくなかったが、度重なる試験の結果、現地に適した茶樹品種の育成に成功、150haにおよぶ栽培面積に合わせて第二の製茶工場が建設された。1900年パリ万博博覧会では、中国茶葉が出品されなかった情況下、劉峻周が出品した“劉茶”はポポフ製茶工場に金賞をもたらした。グルジアは1990年代中期の最盛期、6.23万haの茶園を擁し、年間生産量は50万tを超え、ソビエト連邦生産量の95%を占め、CIS諸国に供給する以外、トルコ、ドイツなどに輸出した。
労働赤旗勲章授与
劉峻周の茶業における傑出した貢献に対して、帝政ロシア政府は1909年にスタニスラフ勲章を授与した。1918年、トルコ軍がバトゥミを占領した時には劉峻周を先頭に製茶工場職員は武装して二日二晩闘って製茶工場の安全を守った。1923年、勤務30年にソビエト連邦政府より労働赤旗勲章を授与される。1924年、ソビエト連邦政府による居留民に対する帰化要求に応じず、一家を挙げてグルジアを離れて広州に戻り、その後ハルビンに定住する。グルジア政府は記念に劉氏故居を“茶葉博物館”とした。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次