鹿児島のハンズ茶

はんず茶作り ハンズで茶葉を炒る

はんず茶作り 揉捻

「故郷忘じがたく候」司馬遼太郎 碑

沈壽官 瓶(ハンズ)

~司馬遼太郎が見た望郷の里と私が見た茶~
戦後間もない頃、産経新聞社京都支部寺院担当をしていた司馬遼太郎が庫裡のすみで雨に濡れる壺を見たことから一つの短編が生まれました。『故郷忘じがたく候』
日本の茶文化と歴史が最も寄りそっていた安土桃山時代、時代の立役者豊臣秀吉は人生最大の夢海外制覇に向け天正二十年(1592年)正月五日に朝鮮出陣を命令、それに応えた小西行長、加藤清正、黒田長政、島津義弘、福島正則、長宗我部元親、小早川隆景、毛利輝元、宇喜多秀家、細川忠興ら、九州キリシタン大名を中心とした軍十六万が海を渡り、釜山浦・慶尚道金海に次々と上陸を開始、「文禄・慶長役(壬辰・丁酉倭乱)」(1529~1598)、の幕が切っておろされました。
慶長二年(1597年)、全羅道の文化的な中心地のひとつであった全羅北道南原城を、総大将宇喜多秀家、先鋒小西行長、島津義弘、蜂須賀家政、長宗我部元親、加藤嘉明ら十万が包囲しています。この時、島津軍には敵に勝利する以外特別の意図ももって参戦していたと、司馬遼太郎は想像しています。当時、薩摩には陶磁の技術がないばかりか、ほとんどの人が陶磁器を手にとったこともなく、木をくりぬいて作るものや土器に毛の生えた程度の食器しか知らず、上流階級で茶道が隆盛し渡来物の茶器が珍重される時代の流れから遠く取り残されたところにありました。千利休にしばしば茶道の伝授を受けた島津義弘に陶磁工を捕獲する意図を持っていたことを否定する理由は一つもありません。
文禄・慶長の役の際に連行された陶工によってそれぞれ焼き物の生産が始まったのは薩摩焼だけではありません。特に鍋島直茂は李三平ら多くの陶工を連れ帰りました。彼らは磁器となる陶石を有田に発見し、窯を開いて磁器を焼き、それらが大量に伊万里から船で積み出されたため伊万里焼と呼ばれるようになり、全国で使われるようになっただけでなくついにはヨーロッパ文化にも影響を与える存在となりました。他に黒田長政が連れ帰った陶工八山に始まる高取焼、細川氏の上野焼、毛利氏の萩焼なども同様です。
島津軍により連行されたのは朴、李、沈、崔、金、鄭、申、黄、羅、燕、白、朱、何、車、盧、丁といった22姓約73名。彼らを乗せた船は、豊臣秀吉の死によって本体が命からがら撤退した翌年、途中何があったのだろうかと思わせるような時間を経て薩摩半島の浜辺(島平)に漂着し、そこで生きるために土を用いて生活雑器類を焼いたと伝えらます。「本壺屋」という由来に因む地名がいちき串木野市残り、現在「薩摩焼開祖着船上陸記念碑」が立っています。天下分け目の関ヶ原の戦い直後の混乱期、誰も彼らを顧みるものはなく、根付こうと数年奮闘した地では結局、疎通するどころか住民による圧迫から逃れるため放浪を余儀なくされました。放浪の果て、彼らが故郷の風景に似ているとして居を定めた地苗代川は地名に川の字がついているのに井戸を掘っても水脈にあたらないほど荒漠とした土地でしたが、彼らを見る村人の目は厳しくなく留帳は彼らの悲惨さが訴えていたと言います。ようやく彼らのことが藩主の耳に達したのは、小屋を結んだり、百姓の家などを頼ったりして過ごすこと更に両三年も経ってからのことでした。
藩主から扶持を与えられ、士分に取り立てられ取り組んだ白陶の開発は、渡来から二十年余ついに朴平易により成功します。結果、島津義弘は将軍家や有力大名の茶会に使用してもらうべく茶入れを贈答品として活用、彼らが創製した白薩摩が外様大名として厳しい対応を迫られていた島津家の外交を支え、薩摩焼の茶陶が全国に名を馳せるようになりました。そして彼らが住む苗代川は日本人社会から完全に隔離され薩摩藩御用焼の生産維持と朝鮮の言語・服装・風俗習慣が保持されたまま、明治維新政府が彼らを日本人とするまで、彼らの望郷の地を映した水鏡のように三百年時が止まりました。
かつて朝鮮神話の始祖壇君を祀り、母国の言葉と舞で祭祀を行った玉山神社は茶畑が広がる高台の奥まった静かな森の中にあったそうです。
苗代川(現日置市美山)が属していた薩摩鹿児島藩領伊集院郷に「はんず茶」というこの地方独特の釜炒り茶が存在しました。はんずとは半胴がなまったもので、水の保管や味噌の保管に多く利用されている大水甕を指します。苗代川の人々が創製した薩摩焼には白薩摩と黒薩摩の二つがあります。白薩摩は藩にのみ納められる雅な焼き物、黒薩摩は雑器として民衆の生活に使われました。雑器であるはんずを寝かせて作った釜に茶葉を投入し、先がいくつかに枝分かれした茶の枝を甕の中に突っ込んでかき混ぜながら茶葉を炒り、作り手のタイミングで炒り葉を甕から出して揉捻、それを交互に繰り返して作ります。茶葉の投入量、熱加減、揉捻の加減などはすべて経験に基づくもの。いつまでも飽きのこない、どこか懐かしいこの味、今ではこれを伝承して生産する家がほとんどなく、鹿児島市の松元(伊集院郷と呼ばれた地域は現在、鹿児島市と日置市に分かれました)に数軒あるのみなのが残念でなりません。

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