<上海建築2004&2014>慕爾堂(沐恩堂)

慕爾堂2005

慕爾堂2014

西蔵中路316号
上海にあるキリスト教教会は大小さまざま、広く分布しており、なかでも西蔵中路の慕爾堂は、広大な規模を有するだけでなく“社交会堂”と呼ばれています。なぜなら、教会内に幼稚園、夜間学校、女学校、女子寮があり、多くの慈善事業に従事しているからです。
1848年、上海にやって来たアメリカ人夫婦が南市王家碼頭街に住み、1850年鄭家木橋(現在の福建南路)に福音堂を建てて布教活動を行ったのが監理会による上海での活動の始まりと言えます。
1900年、アメリカカンザス州の信者(名前はシェーン(慕爾))が亡くなった娘の供養に監理会に多額の寄付をしたことから、その寄進者の名前をとって講堂が慕爾堂と改名され、さらに数年後の1929年、有名な建築士のヒューディックの設計によって、敷地面積1347㎡、建築面積3138.5㎡の教会堂が1931年に落成しました。収容可能人数は実に1000人、階下の560席、上階の380席、聖歌隊60席の規模になりました。
1936年、アメリカカリフォルニア州の信者が上海に来たおり教会堂の頂上に高さ5mのネオンの十字架をつける資金を寄付しました。この十字架は台にモーターがついていて夜間にキラキラ光りながらゆっくりと回わります。当時、非常に人目を引いて慕爾堂は上海の最先端の教会になりました。1937年八・一三抗日戦争においては最も早く難民を収容した教会でもあります。太平洋戦争では、日本軍に占領されて憲兵の司令部になり、広間は馬屋として使われ教会堂は深刻な破壊に遭いました。終戦後1945年9月修繕され再び開放されましたが、10年の動乱期には宗教活動は停止をやむなくして、南京中学(高校)のために使われました。慕爾堂が教会に返ったのは1979年のことです。

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