【1893年汉口伙计赴俄国种茶 后赢世博金质奖章 】
发布时间: 2014-08-18 来源: 长江日报
在今天的格鲁吉亚,当地人爱喝一种叫“刘茶”的红茶。《中俄茶叶之路》课题组专家刘晓航、贾海彦介绍,“刘茶”是1893年一位来自汉口茶坊的伙计刘峻周将茶籽、茶苗带到了黑海沿岸的巴统,在当地生活30余年,帮助俄国培育出优良茶品种。
贾海彦说,19世纪晚期,俄国通过万里茶道,一面加强与中国的茶叶贸易,一面尝试引进中国茶树和制茶技术,在本国发展茶叶种植和生产。1883年,俄商从湖北羊楼洞购买大量茶籽、茶苗,栽植在克里木的尼基特植物园内。由于该地气候、土壤、水质条件不适宜种茶,茶树生长不良,于是俄商开始从中国引进种茶、制茶人才,刘峻周就是其中之一。
“刘茶”在1900年的巴黎博览会上获得金奖,当地人称刘峻周为高加索的“中国茶王”。
汉口学徒俄国种茶“刘茶”赢世博金质奖章
刘峻周祖籍湖南,早年逃荒到汉口,被同宗祖父辈刘氏茶坊37代传人、著名茶商刘运兴收留,在汉口刘氏茶坊做学徒。
1888年,俄国皇家采办商波波夫来到中国选购茶叶,结识了年轻的刘峻周,经常向他询问有关茶叶种植和加工的问题。波波夫邀请刘峻周跟他去俄国发展当地茶叶生产。
1893年,刘峻周和波波夫采购了数千公斤茶籽和数千株茶苗,带领12名茶叶技工从宁波南下广州,由广州沿南海经马六甲海峡至印度洋,再从红海经苏伊士运河至地中海,渡过爱琴海、黑海,抵达格鲁吉亚巴统港。
刘峻周和中国茶工种植了80公顷茶树,筹建波波夫茶厂,正式开始茶叶生产。3年后,茶苗和茶籽已在当地的红土山坡上生根安家,生产出第一批红茶,品质上佳。
1897年,刘峻周第二次带领12名技工,携带家眷,带着从国内选购的大量优质茶苗茶籽,再次来到巴统。在离巴统14公里的恰克瓦,他们辛勤劳作,试种新茶。经过反复试验,终于成功培育出适合当地种植的茶树品种,种植面积达到150公顷,并建起第二座茶叶加工厂。在1900年巴黎世界博览会上,刘峻周送评的“刘茶”赢得了金质奖章。
办公地成科研所茶叶出口土耳其德国
鉴于其在茶业上的杰出贡献,1901年,在农业部长叶尔莫洛夫力荐下,刘峻周担任恰克瓦皇家庄园茶厂主管。为了提高茶叶的品质,刘峻周反复进行试验,从育苗、栽种、松土、采叶到焙制的每个环节,总结出一套行之有效的经验。第一年就获丰收,此后产量逐年递增,茶园面积不断扩大,年产茶达到2000磅。此后,在他的建议下,当局创办了茶叶工艺学校,培训茶业人才。
1909年,沙俄政府授予刘峻周“斯坦尼斯拉夫三级勋章”,这是未有俄国国籍而受勋的第一个中国人。
1912年,在“俄罗斯亚热带职务展览会”上,刘峻周等生产的茶又获大会奖状。
刘峻周在格鲁吉亚开辟的茶叶种植和加工业持续发展,在20世纪90年代中期拥有6.23万公顷茶园,年产量超过50万吨,占苏联地区产量的95%。除供应苏联各加盟共和国外,还出口土耳其、德国等地。
为纪念刘峻周,格鲁吉亚人习惯将当地红茶成为“刘茶”。刘峻周被誉为格鲁吉亚种茶创始人之一。如今,格鲁吉亚国家档案馆内至今保存着刘峻周当年写的报告。在恰克瓦,刘峻周办公过的地方,现在是格鲁吉亚科学院茶叶科技研究所。
受到列宁斯大林约见出3万卢布资助俄国革命
贾海彦介绍,因为种茶成功,刘峻周有缘结识了列宁和斯大林。1904年夏,列宁到格鲁吉亚寻访斯大林等革命者,和斯大林一起慕名拜访了这位中国厂长。
为支持列宁革命,后来,刘峻周请斯大林向列宁转交了3万卢布的活动经费。
十月革命胜利后,刘峻周担任苏联政府国营茶厂经理。列宁不忘这位中国人,又两次约见刘峻周。
列宁约见刘峻周时,曾提出苏联人自办茶厂,中断中国和苏联的茶叶贸易,并希望刘峻周加入苏联国籍。
1924年年底,苏联发生驱逐侨民事件,所有没加入苏联国籍的侨民,都将被驱逐出境,刘峻周也在其中。斯大林亲自约见刘峻周,要求他加入苏联国籍,刘峻周没有答应。
1925年,刘峻周回国,定居哈尔滨。回国前,刘峻周赠送格鲁吉亚八通博物馆数张照片和一个佩戴了32年的象牙小圆球。1939年,刘峻周在哈尔滨去世。
刘峻周之子刘泽荣
共产国际里的第一位中国人
在俄国生活、工作了30余年,刘峻周种植的是茶树,传播的却是文化和友谊。如今,他的后人们仍在继续为中俄友谊贡献力量。
刘峻周的长子刘泽荣被带往俄国时年仅5岁,俄语说得比汉语还流利。他早年毕业于彼得堡大学数学物理系,十月革命后组建“旅俄华工联合会”并任执委会主席,曾以“中国社会主义工人党”名义先后参加共产国际第一、二次代表大会,被选为民族和殖民地问题委员会委员,是共产国际里的第一位中国人。
1920年初,列宁召见正负责中俄边境勘测工作的刘泽荣,希望他能多做些促进中苏友谊的事。
1940年,国民党政府任命刘泽荣为驻苏使馆参赞,1945年,他回国任外交部驻新疆特派员。新中国成立后,刘泽荣任外交部条约委员会委员、外交部顾问。1950年,周恩来曾称赞他为“了不起的中国人”。
1958年,65岁的刘泽荣加入商务印书馆,担任《俄汉大辞典》的主编。他的女儿刘华兰继承父业,多年来不断补充修订这本大辞典。
刘峻周的次子刘维周是兰州大学教授,曾在中国西北创办大学俄语系和筹建中苏友协。抗日年代,当苏联志愿飞行员在汉口和兰州上空飞行时,他是地面上接待飞行员的主要人员。他精通俄语,熟知俄罗斯人的习惯和口味,志愿飞行员们都忘不了这位“刘同志”。此外,他的格鲁吉亚人妻子刘媛娜、儿子刘光杰、刘光彦都曾在大学教授俄语。
如今,刘峻周的玄孙,即刘维周的曾孙刘浩,在莫斯科大学取得俄罗斯语言文学副博士学位后,进入北京大学博士后流动站。
万里茶道之变
传统的中俄万里茶道以汉口为起点,经恰克图进行贸易,再到彼得堡和欧洲腹地,恰克图因此成为中俄茶叶交易重镇。有关数据显示,到1851年太平天国运动爆发前夕,俄国从恰克图进口的中国货物中,茶叶已超过95%。这不仅是一座造就富翁的城市,也让俄国与中国的文化实现了“不可思议的沟通”。
而对中俄万里茶道而言,1905年是一个具有划时代意义的年份。这一年,“全世界最长铁路”——西伯利亚大铁路开始通车,从此改变了万里茶道的走向。绵延2万多里的陆上茶路,自此被一条更新、更快的通道所代替:来自汉口的茶叶,经长江黄金水道运至上海;再由上海通过定期海轮运至海参崴;然后,经西伯利亚大铁路送到俄国全境。
“这条路线非常重要,它使茶叶的供货周期大幅缩小,茶叶在俄罗斯的价格大幅下降,饮茶得到更大范围普及。但这也是一条短命的路线,大概只持续了12年,随着俄国十月革命爆发,整条万里茶道也就衰落了,”湖北省社科院《中俄茶叶之路》课题组专家刘晓航说,“有关这条路线的研究极少”。
西伯利亚铁路开通万里茶道渐渐冷清
1891年4月,俄国皇太子尼古拉来汉,湖广总督张之洞设宴接待。“这趟行程,跟清政府确定的事情之一,就是未来的茶叶将通过西伯利亚大铁路进入俄国府邸。1891年,正是西伯利亚大铁路开始修建的年份。”刘晓航教授在查阅了大量史料后这样认为。
1905年,随着西伯利亚大铁路开通,中俄茶叶之路从此绕过了恰克图。此后,虽然恰克图仍然是“走西口”中国商人的重要目的地,但它在中俄贸易中的地位却不断下滑,很多商号出现“人去楼空”的景象,整个城市到最后更是沦为地区级的商贸中心。昔日富甲大陆的恰克图,甚至一度变成了军事要塞。
“俄国人一直致力于采用新的运茶路线,将汉茶至恰克图的传统北线陆路,改为江海水路。运程缩短,运费降低,利润增加。随着海运的扩大,往昔繁忙的中俄万里茶道渐渐冷清,成为历史的陈迹。”武汉大学教授、中俄关系学会理事刘再起在接受记者采访时说。
俄商淡出汉口茶市中国人赴巴统种茶
因1905年西伯利亚大铁路通车而崛起的全新中俄海上茶路,在1917年俄国十月革命爆发后,就几乎陷入了停顿,它仅运行了短短12年。
事实上,20世纪之初,中国爆发了辛亥革命,随后俄国发生十月革命。两个国家的政治格局发生了巨大变化,深刻影响了维持200年的中俄茶叶贸易。刘晓航教授告诉记者:“俄国建立起世界上第一个苏维埃政府后,不仅宣布放弃沙皇俄国海外一切‘殖民特权’,并同时宣布茶叶为‘奢侈性消费’,俄商在华的茶叶生意自此由盛而衰。”
“1917年,俄国十月革命后,输俄茶叶贸易日趋衰落,在汉口的几家俄商茶厂相继关闭,其中新泰茶厂为英商接办,易名为太平洋砖茶厂。俄商独占汉口茶市半个多世纪的局面从此结束。”刘再起教授介绍。
湖北省社科院徐凯希教授在《近代湖北茶叶改良述略》中记载,十月革命后,随着外销红茶渐行停止,洋行停购,又无其他销路,湖北茶业蒙受严重损失,茶叶生产逐年缩减。1918年后,茶农或置茶园荒芜于不顾,或改制内销绿茶,茶商亦纷纷歇业。几年间,茶市一片萧条。由于山西帮茶庄收缩业务,素以茶庄最多著称的羊楼洞,仅剩义兴、兴隆茂、聚兴顺、长裕川及昌生等5家砖茶庄勉强维持。直到1922年俄国恢复收购,汉口茶市复苏。到1925年,汉口几家砖茶厂复工,各行存茶才全部售完。1929年中东路事件发生,中苏断交,汉口茶市再度萧条。1934年前后,市场方重新活跃。
俄国人喝红茶的习惯,却没有因十月革命而消失。因为巨大的市场需求,以刘峻周家族为代表的中国茶叶种植者在高加索巴统地区种植茶树,并采用中国的制茶方式,建厂生产红茶。中俄茶叶交往,以另一种方式存续了下来。
从莫斯科到海参崴
西伯利亚大铁路横贯俄国东西
西伯利亚大铁路是横贯俄罗斯东西的铁路干线,总长9332公里,是世界上最长的铁路。起自莫斯科,经梁赞、萨马拉、车里雅宾斯克、鄂木斯克、新西伯利亚、伊尔库茨克、赤塔、哈巴罗夫斯克(伯力),到符拉迪沃斯托克(海参崴)。
奔跑在这一钢铁大动脉上的,共有大约1000列货运和客运列车。车里雅宾斯克以西,于19世纪中建成;以东长7416公里,于1891年始建,1905年大部分路段运营,1916年全线通车。
海参崴是俄罗斯远东第一大城市,人口70多万,是西伯利亚大铁路的终点,俄罗斯在远东的政治经济文化中心。海参崴原是中国领土,“崴”是洼地的意思。100多年以前,这里盛产海参,海参崴由此得名。
1860年,沙俄强迫清政府签订《中俄北京条约》,致使包括海参崴在内的40多万平方公里土地被割让给沙俄。1862年,沙俄政府将海参崴改名为“符拉迪沃斯托克”,意思为“控制东方”。
【1893年漢口の徒弟がロシアに茶を植え、後に万博で金賞受賞】
発行:2014.08.18 長江日報
グルジアでは、人々が好んで飲む“劉茶”と呼ばれる紅茶がある。《中俄茶葉之道》テーマチーム専門家劉暁航、賈海彦はこう紹介している。“劉茶”とは1893年に漢口の茶坊職人劉峻周が茶種、茶苗を黒海沿岸バトゥミに持って行って、現地で30年以上生活してロシアでの優良品種育成に尽力した。賈海彦は言う、19世紀末、ロシアは万里茶道を通り、中国との茶葉貿易を強化する一方、中国から茶樹や技術導入を試み国内での茶栽培生産を発展させた。1883年、ロシア商は湖北赤壁羊楼洞から大量の茶種、茶苗を購入、クリミア半島ニキータ植物園内で栽培を試みた。気候、土壌、水質条件が茶の栽培に適さず、茶樹の生育が不良であったことから、ロシア商は中国から製茶栽培技術者を勧誘したが劉峻周はその一人であった。 “劉茶”は1900年パリ万博博覧会で金賞を獲得、地元の人々は劉峻周をコーカサスの“中国茶王”と称した。
漢口の弟子、ロシアで茶を植え“劉茶”で万博博覧会金賞獲得
劉峻周の本籍は湖南省、若い頃に飢饉のために漢口に避難して、父方の親戚劉氏茶坊37代目、著名な茶商劉運興に身を寄せて漢口劉氏茶坊の弟子となる。1888年、帝政ロシア買付商ポポフは中国で茶葉を購入した折、若い劉峻周と知り合い、茶の栽培や加工に関連したことを尋ね、劉峻周をロシアでの茶葉生産に誘う。1893年、劉峻周はポポフと茶種数千㎏と茶苗千株、12名の製茶技術者を率いて、寧波から広州に南下、広州から南シナ海に沿ってマラッカ海峡、インド洋、紅海からスエズ運河を通過、地中海、エーゲ海、黒海、グルジアバトゥミ港に到着した。劉峻周は技術者と80ha茶樹を植え、ポポフ製茶工場を建設、茶葉生産を開始した。3年後、茶苗と茶種は現地の赤土の山斜面に根をおろし、品質の良い最初の紅茶を生産した。1897年、劉峻周は第二陣の技術者12名を率い、中国で購入した大量の良質の茶苗茶種を携え、家族と共にバトゥミに再び到着する。バトゥミから14km離れたチャクワで、新しい茶を試み、度重なる試験の結果、現地に適した茶樹品種の育成に成功、150haにおよぶ栽培面積に合わせて第二の製茶工場が建設された。1900年パリ万博博覧会では、劉峻周が出品した“劉茶”が金賞を受賞する。
働いた土地は科学研究所となり、茶葉はトルコ、ドイツに輸出
茶業における傑出した貢献に対し、1901年、農業部長の推薦で、劉峻周はチャクワ皇家荘園製茶工場主管を担当、茶葉の品質を高めるために度重なる試験を行い、育苗、栽培、土作り、摘採から乾燥までの個々の工程に有効な経験を総括した。初年度は豊作、以後生産量は年々増加して、茶園面積は絶えず拡大、年間生産量は2000ポンドに達した。以後、劉峻周の提案で当局は技術学校を創立、人材を育成した。1909年、帝政ロシア政府は劉峻周にスタニスラフ勲章を授与、自国籍を持たず受賞した初めての中国人となる。1912年、“ロシア亜熱帯職務展覧会”において劉峻周らが生産した茶は大会賞状を獲得。劉峻周がグルジアで開拓した茶栽培加工は発展、20世紀90年代中期に6.23万haの茶園を擁し、年間生産量50万t超、ソビエト連邦生産量の95%を占めた。茶葉はソビエト連邦各加盟共和国に供給される以外、トルコ、ドイツなどに輸出された。劉峻周を記念してグルジア人はこの地の紅茶を“劉茶”と言う。劉峻周はグルジア茶創始者の一人と称えられ、グルジア国家文献館内には今なお劉峻周が当時書いた報告書が保存されている。チャクワで劉峻周が執務した場所は現在グルジア科学院茶葉科学技術研究所になっている。
レーニンとスターリンに3万ルーブルの革命資金
茶栽培の成功で、劉峻周はレーニンとスターリンと知り合いになったと、賈海彦は説明する。1904年夏、レーニンはグルジアまでスターリンら革命家を訪ね、スターリンと共に著名な中国人工場長を訪問した。レーニン革命を支持して劉峻周は後にレーニンに宛て3万ルーブルの活動資金をスターリンに託している。十月革命勝利後、劉峻周はソビエト連邦政府国営製茶工場責任者となった。レーニンはその中国人を忘れず、また二度劉峻周と会っている。この時、自国で製茶が行われるなら、中国との茶葉貿易を中断できるとし、劉峻周にソビエト国籍取得を希望した。1924年末、ソビエト連邦で居留民駆逐事件が発生、ソビエト連邦国籍未加入の居留民はすべて出国させられたが、劉峻周もその中の一人であった。スターリンはみずから劉峻周と会って、帰化を勧めたが劉峻周は応じなかった。1925年、劉峻周は帰国、ハルビンに定住する。帰国前、劉峻周はグルジアバトゥミ博物館に数枚の写真と32年つけていた象牙の小圓球を贈った。1939年、ハルビンで逝去。
劉峻周の息子劉沢栄、コミンテルン第一位の中国人
ロシアで暮らし30年以上働いて、劉峻周が行ったことは茶樹を植えたことであるが、伝えたものは文化と友好であった。子孫も中露友好のために貢献している。劉峻周長男劉沢栄がロシアに連れてこられた時はたった5歳、ロシア語は中国語より流暢に話す。数理物理学を専攻、十月革命後“旅俄華労働者連盟”を創設し委員会主席の任にあたる。かつて“中国社会主義労働者党”としてコミンテルン第一、二代表大会に参加、民族と植民地問題委員会委員に選出、コミンテルン第一位の中国人となった。1920年初、レーニンは中ソ辺境調査測量作業責任者劉沢栄に引見、中ソ友好促進を望んだ。1940年、国民党政府は劉沢栄を駐ソ大使館参事官に任命、1945年、帰国後外交部駐新疆特派員に任命される。新中国成立後、外交部条約委員会委員、外交部顧問を担当。1950年、周恩来は彼を“素晴らしい中国人”と称賛した。1958年、65歳の劉沢栄は商務印書館に加わり、《俄漢辞書》の編集長を担当。娘の劉華蘭も父親の事業を継ぎ、長年にわたり絶えず大辞典の改訂補充を行った。劉峻周の次男劉維周は蘭州大学教授で、かつて中国北西大学でロシア語学部と中ソ友好協会を創立した。抗日年代、ソ連の志願飛行兵が漢口と蘭州の上空を飛行した時、パイロットに応対した。ロシア語に精通し、ロシア人の習慣と好みを熟知した“劉同志”のことを、志願飛行兵たちは忘れることはなかった。グルジア人妻の劉媛娜、息子劉光傑、劉光彦は大学でロシア語を教えた。現在、劉峻周玄孫、すなわち劉維周の曽孫劉浩は、モスクワ大学でロシア言語文学副博士学位取得、北京大学ポストドクター科学研究センターに入る。
万里茶道の変化
伝統的中露万里茶道は漢口(現在の武漢市の一部にあたる)起点として、キャフタを経由しペテルスブルグやヨーロッパ奥地に達したため、キャフタは中露茶葉交易の重要都市となった。データによると1851年の太平天国の乱勃発直前、キャフタからの輸入貨物中茶葉は95%以上を占めていた。それは富裕な都市が誕生したと同時に、ロシアと中国文化の“不可思議な橋渡し”を実現させた。中露万里茶道について言うと、1905年が画期的な年になった。世界最長鉄道シベリア鉄道が開通し、万里茶道の方向性が変わったのだ。二万里に及ぶ陸のティーロードに代わる新たな道ができた。漢口からの茶葉は長江金水道で上海に運ばれ、上海から汽船で海参崴に、その後シベリア鉄道でロシア全土に送り届けられた。それによって、茶葉供給周期が大幅に縮小、茶葉のロシア価格は大幅に下がり、喫茶は津々浦々まで普及したが、たった12年しか続かない短命な路線となった。十月革命が起こると、全万里茶道が衰退していった。湖北省社会科学研究院《中俄茶葉之道》テーマチーム専門家劉暁航は言う。この路線に関する研究は極めて不足している
シベリア鉄道開通で万里茶道冷え込む
1891年4月、ロシア帝国皇太子ニコライが来漢、湖広総督張之洞は宴を開いてもてなした。清朝政府と確認したことの一つは、将来茶葉がシベリア鉄道によってロシア官邸に入ることだった。1891年はまさにシベリア鉄道建設が始まった年である。劉暁航教授は大量の史料を調べたすえこのように考えた。1905年、シベリア鉄道が開通すると、ティーロードはキャフタを迂回するようになった。以後もキャフタは依然として西に向かう中国商人の重要な目的地ではあったが、中露貿易における地位は下落、多くの商店はもぬけの殻となり、地方の商業貿易センターレベルに落ちぶれた。かつて栄華を誇ったキャフタは軍事要塞に変わり果てた。ロシア人は常に新たなティーロードを求め続けた。キャフタに至る北陸路は江海水路に変わった。運搬距離は短縮され、運賃は下がり、利益は増える。海上輸送した拡大で往年の中露万里茶道はひっそりと静まりかえり歴史の故事になった。武漢大学教授、中露関係学会理事劉再起は記者のインタビューでそう語った。
ロシア商は漢口茶葉市場から消え、中国人はバトゥミで茶を植える
1905年にシベリア鉄道開通で新たに生まれたティーロードは、1917年の十月革命勃発で行き詰まり、たった12年で終わった。20世紀初、中国で辛亥革命が勃発するとすぐロシアで十月革命が発生している。二国家の政治構造の大変化は200年続いた中露茶葉貿易に深刻な影響を与えた。劉暁航教授は記者に言う。世界で初めて社会主義共和国連邦政府が建設され、帝政ロシアが海外で有した植民特権を放棄すると宣言するとともに茶葉は贅沢消費であるとしたため中国茶葉を扱うロシア商の勢いは衰えた。1917年十月革命後茶葉貿易は衰退、漢口にあるロシア商の製茶工場は相次いで閉じ、新泰茶廠は英商に引き継がれ太平洋磚茶茶廠と変名した。ロシア商による漢口茶市場独占は半世紀余りで終わったと劉再起教授は説明する。十月革命後、紅茶輸出が減少、外国商社が購入を止め、その他販路を失うと、湖北茶業は厳しい損失を被り、茶葉生産は年々減少したと、湖北省社会科学研究院徐凱希教授は《近代湖北茶葉改良述略》に書いている。1918年以降、茶農や茶園は顧みられず荒れるか、あるいは国内向け緑茶に切り替えられ、茶商は次から次へと休業した。数年間茶葉市場は閑散とした。晋商が関与する茶問屋が業務縮小したため、茶問屋の多さで知られる羊楼洞でも、義興、興隆茂、聚興順、長裕川、昌生など5軒の磚茶問屋がかろうじて存続するのみであった。1922年、ソビエト連邦による買い付けが復活すると漢口茶葉市場は息を吹き返した。1925年までに漢口のいくつかの磚茶工場は操業を再開し、それぞれ在庫を売り切った。1929年中東路事件(中ソ紛争)で両国は断交、漢口茶葉市場は再び落ち込んだ。1934年前後、市場に再び活気が戻る。ロシア人が紅茶を飲む習慣は十月革命のせいで消えることはなかった。巨大な市場需要のため、劉峻周一族を代表とする中国の茶葉栽培者はコーカサスやバトゥミで茶樹を植えて、中国の製茶方法で工場を造って紅茶を生産した。中露の茶交流は別の形で存続したのだ。
モスクワから海参崴まで
シベリア鉄道はロシア東西を横断する幹線で、全長9322㎞、世界最長の鉄道である。モスクワを起点に、リャザニ、サマーラ、チェリャビンスク、オムスク、ノボシビルスク、イルクーツク、チタ、ハバロフスク(伯力)を経過して、ウラジオストック(海参崴)に到着する。鉄鋼の大動脈上を、千の貨物列車や旅客列車が走る。チェリャビンスクに発しシベリアを東西に横断する7416㎞は、1891年に建設が始まり、1905年には大部分区間が運営、1916年に全線開通した。ウラジオストクはロシア極東最大都市で、人口70万以上、シベリア鉄道終点で、極東ロシアの政治経済文化の中心である。ウラジオストクは以前中国領土で海参崴といった。崴は窪地を意味し、100年以上前ここで海参(ナマコ)が豊富に獲れたことから、海参崴の名がついた。1860年、帝政ロシアは清政府に《北京条約》調印を強い、海参崴を含くむ40万k㎡余りの土地を割譲させた。1862年、帝政ロシア政府は海参崴を改名して“ウラジオストク”とした。意味は東方制圧である。