大稲埕@台三線お茶のある風景㉕

大渓周辺地は地の利から茶業発展の芽がありました。 19世紀末、樟脳産業の衰退で不毛になった山の斜面を、茶を一本一本植えて、名茶産地へと育て上げたのは、客家の人々でした。
昔の茶葉古道は、人が天秤棒で担いで夜中12時に出発すれば、飛鳳古道を通って朝6時に大渓に到着、茶葉は舟筏に乗せられて下流へと運ばれて、夕方6時に大稻埕に到達して、出港の準備が行われたと言います。
大稻埕はかつて平埔族の居住地でした。萬華(艋舺)同安人が械鬥※のせいで大稻埕に入植して、ここに大規模な穀物を乾燥させる施設を設けていったことから、大稲埕と称されるようになりました。
清朝が英仏連合軍に敗れたことによって、1860年に淡水開港すると、開港範囲にあった艋舺と大稲埕でも活発な交易が行なわれるようになり、大型船が停泊する大稲埕は台湾北部の商業貿易の中心として発展して行きました。
1885年、清仏間で講和条約が結ばれると、清朝は台湾に行省を設置することを決定し、劉銘伝を初代巡撫に任命しました。劉銘伝はインフラの整備を積極的に推進し、大稲埕埕が北部物資の集散地であることを考慮し、鉄道駅を大稲埕南端(現在の中興医院付近)に「台北火車票房」(大稲埕駅、現在の台北駅の前身)を建設、付近の商業活動をより発展させました。
李春生は林維源と共同出資して建昌公司を設立、大稲埕に建昌街(現在の貴徳街)を整備し、ここに洋風店舗を建ててそれの貸し出しを開始し、洋風建築を用いた商業活動が行なわれるようになりました。
〈備考〉
械鬥とは※
台湾で18世紀中頃から19世紀末にかけ、福建省籍の閩南人と広東省籍の客家、潮州人間で起きた武裝衝突のことを指します。1853年、閩南の同安人は閩南の三邑人に艋舺から追い出されました。

~2024年6月8日facebook記事より

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