愚園路218路
老上海において、ダンスホールは一般的に大ホテル内にありました。1910年礼査飯店(アスターハウスホテル)のダンスホールをかわきりとして、1927年ダンスホールを看板にした永安公司(ウィンオン)、単独のダンスホールでは20年代末の黒猫舞庁があります。 30年代以降、上海のダンスホールは最盛期を向かえ、とくに4軒のダンスホールが最高とされました。百楽門(パラマウント)を筆頭として、仙楽斯、新仙林、麗都がそれです。百楽門舞庁(パラマウントダンスホール)は愚園路に1931年に建造されました。当時は三階建ての千人単位の収容能力を持つ豪華なダンスホールで、二階以上はホテルが併設されていました。
パラマウントダンスホールについてはもう一つ、逸話があります。ある日、飛ぶ鳥を落とす勢いだったサッスーンが友人とパラマウントダンスホールに気晴らしにやって来ました。 取次ぎの者は彼にそれほど貫禄がなかったことや、足が不自由なのを見て、上海の不動産王サッスーンであることを知らず、一般客として扱ってしまいました。 サッスーンは社交場所では必ずVIP待遇を受けていたので、烈火のごとく怒りすぐに立ち去りました。 サッスーンは静安寺路の一角に土地を手に入れ、古い家屋を取り潰し、仙楽斯ダンスホールを建造し、上海第一と名乗ります。 しかし彼はべつにそこを開放するわけではなく、自分の家族と友人たちと楽しむためたけに使用し、その他の人々は路上で足を止めて観賞するしかありませんでした。
しばらくしてサッスーンが仙楽斯を上海の二流“有力者”謝葆生にホールの経営を任せるようになると、ホールは非常に賑わい、人気の移り変わりが後に百楽門(パラマウント)が衰退してゆく原因となりました。
百楽門舞庁(パラマウントダンスホール)は当時“東方第一楽府”と称されました。
戦後、上海のダンスホールは次から次へと転業し、百楽門も改築されて紅都劇場となりました。越劇、滬劇などの公演や映画上映が行なわれています。
目次