



台湾の真ん中、南投県にある台湾一大きく美しい湖日月潭。ここは、日本統治下に建設された紅茶研究機関があり、かつて新井耕吉郎という若い研究者が台湾に紅茶を根付かせようと奮闘した地です。
日清戦争が終結した1895年、講和条約である下関条約に基づき清国から割譲された台湾を統治するために設置された台湾総督府は、茶産業の分野においては紅茶製造を奨励しました。
1926年、22歳で台湾総督府中央研究所平鎮茶業試験支所に着任した新井耕吉郎は、アッサム種の栽培適地を求めて台湾各地を調査し、南投県の日月潭付近の魚池郷に定め、1936年に魚池紅茶試験支所を開設しました。
1938年にはセイロン式紅茶実験工場も建てられます。
1941年、耕吉郎は試験場の支所長に就任し、台湾紅茶産業の発展に大きく寄与しました。
第二次世界大戦後、支所は行政院農業委員会茶業改良場魚池分場として引き続き紅茶研究の場であり続けました。
耕吉郎は戦後も帰国することなく台湾にとどまりましたが、病によって42歳の若さで亡くなりました。
現在の台湾紅茶に耕吉郎の夢の欠片を見つけることができます。
彼を偲んで建てられた記念碑には風雨を防ぐために屋根がつけられて、時々花がたむけられます。
碑に記された新井耕吉郎の紹介
<台湾紅茶的守護者 新井耕吉郎>
新井耕吉郎技師は、日本の群馬県生まれで、1926年台湾総督府中央研究所平鎮茶業試験支所に勤務、1936年魚池紅茶試験支所の成立前、支所創立の仕事に参加し、支所建設の場所、地理環境、土壌、気候と製茶品質等の要素を評価し、最後に海抜800m、日月潭湖畔の水社村を設所場所と決定、台湾紅茶産業の発展に寄与した。
新井支所長は魚池紅茶支所最後の日本人支所長で、第二次世界大戦の間も職に勤め、台湾経済に大きな影響を与えた。頻繁な徴兵による人員不足、試験費用が欠乏する中で、紅茶各種研究と普及業務にあたり、積極的に業務を推進された事は、尊敬に堪えない。
新井支所長は1947年に病死された。終戦後、首任となった台湾茶業公司総経理陳為禎支所長は、1949年に氏の功績を記念し、茶園に記念碑を建てた、これをもって、故き新井耕吉郎支所長が、台湾紅茶産業に対して偉大な貢献をしたことを記念する。
2024.10.01facebook記事より
