糸魚川のバタバタ茶

バタバタ茶を点てる

バタバタ茶用夫婦茶筅

明治時代にバタバタ茶で使用されていた道具

御風宅

御風宅台所/魯山人が料理を作ったという台所

囲炉裏を囲んで

バタバタ茶材料

カワラケツメイの花

~『野を歩む者』に見るバタバタ茶~
新潟県糸魚川市に伝わるバタバタ茶、その起源は諸説ありますが、少なくとも江戸時代からあり、北前船によってもたらされたという説が有力です。戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎え日本は世界の銀総生産の約3分の1を占めたとも推定されていますが、そのほとんどを産した日本最大の島根県石見銀山(現在は閉山)の銀、サケやニシンの漁場だった蝦夷地の俵物(海産物)、それらは長崎貿易の輸出品として重要性が高く、交易で繁栄をほこった北前船が行き来した日本海側港町にもたらしたものは、富だけではなかったのです。
上杉謙信が武田信玄に塩を送った逸話のある越後の姫川両岸にひろがる城下町の人々は、バタバタ茶の由来について、松江の不昧公(出雲松江藩第7代藩主/1751~1818)の茶道の門人だった松平日向守直紹が糸魚川城主になった時に城下に広めたと伝え聞かされてきました。江戸時代の代表的茶人である不昧公の風流趣味の普及と食糧対策二つの役割を担ったものです。バタバタ茶の茶碗は昔から出雲の布志名焼に限られるというこだわり、少量のお茶を泡立てて何杯も飲むと胃に入るたくさんの空気でお腹をいっぱいにする妙法、飢饉など苦しい際にも雅趣を求める心の豊かさが感じられます。
現在、旅行者が糸魚川のバタバタ茶を体験できる場所はひとつ。糸魚川歴史民俗資料館(相馬御風記念館)相馬御風故居における振る舞い茶会(6月~10月の間月一回)です。茶会の会場となっている糸魚川歴史民俗資料館の主人であった相馬御風とはどのような人物だったのでしょうか?なぜそこが会場となったのでしょうか?
相馬御風(1883~1950)は糸魚川で生まれ、中央文壇において自然主義評論家として活躍しました。歌人・詩人として童謡「春よこい」等の歌謡の作詩を数多く手がけましたが、大正5年に突如、故郷糸魚川へ退住して、良寛(1758~1831)の研究に没頭しました。その研究は晩年までの30数年に及び、昭和初期に魯山人が良寛の書(良寛は優れた書家漢詩人であった)を見せてもらうため御風宅を3回訪問したほど有名なものでした。この頃から没年まで御風が発信し続けた一人雑誌『野を歩む者』です。その中で、御風は昔からタテ茶という珍しい風習があると記しています。
微笑ましいのが、布志奈焼は卵色の釉がかかった感じの良い茶碗で至極風靡な茶碗であるけれど、その昔は更に青磁釉の大きい茶碗が用いられ、それは布志奈の靑天目と言われて今では好事家の間で高値で売買されているのだけれど、自分はこの靑いのも黄色いのも更には枇杷色のも幾つも集めて持っていると自慢しているところ。不昧公と不昧公門人の糸魚川城主は死してなお長らく日本海地域の人々に自分好みの布志奈焼陶器販路を保持し続けると同時にバタバタ茶の風習を残すことにも貢献していると言えるかもしれません。
そして、肝心の糸魚川バタバタ茶体験ですが、昔は番茶かカワラケツメイ(弘法茶。弘法大師が薬草として各地に伝え、お茶代わりとした)に塩をいれるだけの簡単なものでしたが、現在はカワラケツメイ、番茶、大豆、茶の花、麦などを煮出したお茶に少し塩を入れ、夫婦茶筅で泡立てて飲みました。一人で緊張して行ったのですが、囲炉裏に座った皆さんがとても歓待してくれて、これもどうぞ、あれもどうぞとお腹いっぱいになり、最後に実際使われていた古くて貴重な茶碗をお見せしましょうと茶碗が出て来て、それではと大きなカメラをかまえると、キレイに撮れるようにと光のあたる板間に茶碗を移してくれるそのおもてなしに、ここで御風の茶碗自慢のくだりを思い出して、写真を撮りながらニコニコするという怪しい行動をとってしまいました。
良寛が諸国行脚ののち故郷出雲崎への帰途で病身を癒した地、魯山人が良寛の書を見るために訪れた地、彼らもバタバタ茶を飲んだのかは定かではありませんが、故郷のタテ茶の風習を『野を歩む者』から知られるのが幸甚と記したその茶の味を、皆さんも知りたくありませんか?

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