徳之島のふり茶

ふり茶

ふり茶とお茶請け(月桃に包んだ紫芋のお餅、サーターアンダギー、田仕事の合間に食べた伝統菓子はったい粉、もずくの天ぷら、島で採れる瓜)

屋主さん

庭を飾る茶器

庭の茶樹

庭でお茶を飲む場所

池ん端ふり茶看板

資料館に残る古いふり茶の道具

クバで作った皿、笠、茶筅
(茶筅はマテ(真竹のこと)やクバ(ビロウ)の芯、島に生える植物で作ります)

木の下に縁台が置かれた築山

お茶うけ用なりみそ

~徳之島に生きたおばあちゃんのふり茶~
昔、昔、遣唐使南航路の中継、中国大陸や朝鮮半島とも平和な交流があった徳之島が歴史に翻弄され始めたのは1429年、琉球が侵攻して親方が置かれ、その後約20年間琉球に対する反乱があったものの、琉球王朝によって統治されることになってからでした。徳之島は1609年(慶長14年)、薩摩の琉球侵攻の一環として鉄砲を有し戦闘慣れした薩摩兵による激しい攻撃を受け未曽有の被害を出し(秋徳湊の戦い)、これを見た王府は王都に戦火が広がることを回避するため戦わずして降伏、徳之島を含む奄美群島は薩摩に割譲されました。しかし、薩摩の統治下に入った後も、年貢に苦しみながらもさらには中国からの冊封使が琉球に渡来する際には琉球王国に貢物を献上し続けたという記録があります。アイデンティティを琉球王朝に求めながらも願いはかなわず、明治の琉球処分で琉球は沖縄県となりましたが、徳之島を含む奄美群島は鹿児島県に編入されました。
太平洋戦争末期、奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島など鹿児島と沖縄の間の八つの島からなる奄美群島は米軍が侵攻した沖縄を目前にした本土防衛の最前線となりました。
戦後の昭和20年9月、ポツダム宣言を受けて、米軍が上陸し島を占領進駐、日本の行政と分離され米軍統治下に編入、昭和26年のサンフランシスコ平和条約では、日本の主権範囲を北緯29度以北としたため、徳之島も本土復帰ならず、新たに米軍統治下の琉球政府に編入となるも鹿児島と沖縄の間の島々には軍事的価値がないとみなされて物資や資金は沖縄に集中し、島民は取り残された状態になってしまいました。人々は食糧不足で飢餓寸前にまで追い込まれ、拿捕される危険を冒して黒砂糖と食糧などを交換する密航でなんとか生き抜いたと歴史には記されています。日米交渉によって奄美群島が本土復帰を果たしたのは昭和28年12月のことでした。
鹿児島県に再編入されても本土から人はやって来なかったけど(昭和30年代に本土との行き来が回復しました)、みんな仲良く暮らしていたよ、戦争中もね、とおばあちゃんは言いました。
奄美群島が歴史に翻弄された時代、徳之島のふり茶はもう一つの『この世界の片隅に』生きた人々と共にありました。

数え年90歳になるおばあちゃんが一人で住んでいるお家の横には小高い築山があって、そのてっぺんの枝をいっぱいに広げた大きな木の下には心地よさそうな縁台が置かれています。その縁台の前に並んでいるのが、のびのびと茂ったお茶の木です。おばあちゃんが語ってくれたのは、ここで100年以上生きてきたお茶の木とふり茶上手のお義母さんとの思い出。
おばあちゃんが嫁入した昭和20年、本土との交流はなく自給自足の生活をしていました。庭にあるお茶の木は、お義父さんが大工仕事で島のあちこちに出かけて、茶の苗も仕事先から分けてもらってきたものです。昔は家の周りにあったお茶の木から葉を摘んでそれを加工して、ふり茶をしていたので、そのお茶の木はふり茶上手のお義母さんに育てられました。終戦直後、主食はおイモ。採ってきたお茶の葉は、おイモを炊く大きい鍋とハゼ(目が粗く平べったいザルのような物)を使って蒸します。蒸しあがった茶葉をハラ(細かく編んだもの)の上で手で汁を揉み出して、それから鉄鍋を用いて炭の弱火(蒸しは適当でも茶葉を炒る時は火を強くしたらダメ)であまりバリバリにならない程度にゆっくりと炒って作り上げます。炒られたお茶の葉は、お湯が沸いた小さい土瓶(薬草を煎じるのに用いる土瓶、鉄瓶では美味しくないと言われた)にいれられて、ダシ(炒った玄米のこと)がある時にはダシを使うけれど、お米も豊富になかった時代にはお義母さんが工夫して夕べ食べたおかいさん(粥のこと)やらご飯やらの残りを土瓶にお茶と一緒に煮てそれをチャフィ(茶桶)に入れてふるとこんもり盛るぐらい泡立てると、お茶もモチモチした感じになってたいそう美味くなりました。ご近所がお茶を飲みにきた時には、みんなにふるまいました。お茶請けは、卵さえあればといた卵にオミソ(島味噌、お茶請け味噌のこと)を適当にいれた卵焼き。野菜で捨てるところは何もなかった自給自足時代、野菜のどの部分も塩をしたら美味しく食べられる、そんな暮らしの中、戦時中でさえも、お義母さんがふる美味しいお茶で家族も近所も心豊かに暮らしたそうです。お茶があるから。
本土鹿児島との交流が回復したのが昭和31~32年、向うから素麺やらお茶やらを送ってくれるようになって、五右衛門風呂が入ってきて、お店もできてきて、お茶の木がうわっていた場所は畑を広げるために整理されてしまいました。あれからたくさんの時が経ち、振り茶上手のお義母さんが亡くなって44、5年、あのようなお茶を飲むことはなくなったけれど、庭のお茶の木は今でもここに残っています。現在阿権にお茶の木が残っているのはおばあちゃんのところだけ。そのお茶の木たちには、いつまでも阿権の風に吹かれていて欲しいです。
方言が混じってわかりずらいところがあったり、少しとりとめのなかったおばあちゃんの話。レコーダーのボタンを押したのが途中からで整理する時に不十分になるかもしれないと一瞬危惧しましたが、これで良いと思いました。おばあちゃんが話を聞いてくれてありがとうとおっしゃった時、目頭が熱くなって言葉がでなかったから。

現在入院中の池ん端ふり茶の明司さんも、夜が明けるのを待ちかねたように老人がふり茶を点てていた記憶を記しています。
「まず、お茶を湯呑みにいれ、かまどの正面に供えて火の用心を、次に仏壇に供えて家内安全を祈りました。その後老人方のふり茶の時間となり、語り合いつつ心ゆくまで楽しんで居りました。若い働き盛りの家族は水汲みや草刈りなどをすませてから朝食をいただきます。その後休む間もなく農作業、この頃の農作業は人力だよりで休日のない重労働でした。大家族制の時代、家長を中心に助け合いつつ暮らす中、農作業のできない雨の日や夏の日盛りには、近所親戚が気軽に立ち寄り縁側や囲炉裏周りで語り合っている間にふり茶とありあわせのお茶うけが出てきました。徳之島のふり茶は、親睦の情を深めあう気楽なお茶だったのです」と。

「今はもうないけれど、昔はどこの家にも茶の木があったよ」と、90を超えた二人のおばあちゃんが共に懐かしむお茶というものは、月日の流れの向うで輝く存在だったのでした。

※ ふり茶とは、昔、南は沖縄から北は青森まで庶民の間で根付いていた喫茶風俗で、人々が囲炉裏などに集まって碗、桶、鉢などに番茶を注いで茶筅で茶を泡だたせて飲むことを言い、また、お茶を茶筅で泡だたせている時に表現される擬音によって、ふり茶を富山新潟ではバタバタ茶、島根愛媛ではボテボテ茶、沖縄ではブクブク茶と呼びました。

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