揖斐川流域山間部の点在する集落は木地師・採薬師、炭焼き・茶栽培で生計がたてられいました。
伊吹山は、織田信長がポルトガル宣教師に命じて開いた薬草園があったと言います。
炭焼きは30kgの炭を担いで、山を越えて関ヶ原や垂井の豪商に炭を納めました。かわりに炭札(たんさつ)を受け取り、それで米や生活必需品を買いました。
美濃では、垂井町岩手の竹中氏や大垣市上石津の高木氏が炭札を発行していました。西美濃地方の両氏が発行した炭札は生活必需品であった木炭を売買する際に用いることによって流通を図るべく炭会所が発行したものでした。
垂井の竹中半兵衛陣屋跡の近所に春日村の炭焼きと取引のあった豪商御屋敷には今も末裔が生活しています。
垂井で栽培されているお茶を不帰茶と言います。
嫁に行く娘に両親が『女は口を慎むべし』と心得を諭したところ、娘は忠実に守り口を利かなかったけれど、嫁ぎ先では不都合と離縁させられ、お婿さんに送られ里に向かう途中、垂井の里で狩人が鉄砲で雉を打つを見て、「きじも鳴かずば撃たれまい」と歌を詠みました。この言葉にお婿さんは「これは帰すことは出来ない」と引き返したことから不帰の地名がつけられたといいます。
(Facebook記事2019年7月7日より)