明恵上人は1173年に生まれ、8歳で父母を失い、高雄山神護寺の文覚について出家しました。東大寺で華厳を学び、1206年後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開きました。厳しい修学修行、求道の思いから右耳を切り落とし、釈迦への思慕から二度にわたってインド巡礼を計画するも願いはかないませんでした。
建仁寺に栄西を訪ねようと下山した明恵は、立派な車に乗って宮中から帰って来た栄西を見て気後れしてしまう清貧一途な人でした。栄西もそんな明恵を呼び止め、みすぼらしい身形の明恵を歓待し、仏教について論じたと言います。栄西が与えようとした印可を断る明恵に、茶の効用を説いて茶種を譲った逸話は今なお語りつがれています。
栄西が宋から持ち帰った茶の種3粒は栂尾の深瀬三本木(境内東、清滝川対岸)に植えられ、栂尾茶として栽培されました。さらに、宇治(駒の蹄影茶園)でも栽培を試み、その後全国に茶が普及することになります。
現在高台寺境内には、山に散在していた茶樹が集められ、「日本最古之茶園」の碑がたてられました。毎年11月8日には、明恵上人に新茶を献上する献茶式が執り行われています。
開山堂の織部燈籠は、東大寺、仁和寺より寄進されたもの、梵字“阿”字石は、茶畑から発見されたと言います。
高山寺の対岸にあった、深瀬三本木茶園(栂尾茶は深瀬三本木茶とも呼ばれました)は現在残っていません。
高山寺周辺の絵看板に描かれていますが、道しるべなどは出ていないのです。絵看板に描かれていたあたりを2時間ほど歩き回ったと聞いた茶屋のご主人が普通の道を歩いていても見つからないことを教えてくれました。松下先生が茶樹があった場所がどんな様子か知らせてくれました。教えてくださった方の好意に報いるためにも諦めるつもりはなく、もう一度トライ。ついに見つけることができました。たどりつけたことを知った茶屋の人たちが喜んでくれたことがこの日一番の喜び、そしてまた、お茶が好きな人へと高山寺茶園の非買品までいただきました。特別なお茶が手元にやってくると、皆でお茶を飲みたくなります。いつかまた会う日まで。
『夢記』
明恵上人はしばしば夢中で霊感を受けた。夢を克明に記録してその中に潜んでいる自分の宗教的な意識を考え続け、約40年もの間、夢を記録している。
『明恵上人樹上座禅像』
明恵上人は、晩年の十年間をほとんど高山寺浦山の楞伽山中で過ごし、その草庵や座禅所の址が今も残る。縄床樹と名付けたこの赤松の座禅所を好み、深い自然の中に没入していたようである。
小鳥やリスが描かれ、ジョット・ディ・ボンドーネが描いた小鳥に説教する聖フランチェスコと相似して、両聖人の慈悲心が象徴されている。
『鳥獣人物戯画絵巻』
高山寺に伝わる数多い宝物のなかでも世界的に知られる、日本を代表する絵巻物。各巻は異なる時代、異なる人物によって描かれている。甲・乙巻が平安時代後半、丙・丁巻が鎌倉時代の制作と考えられ、作者未詳であることなど、いまだ未解明の謎が多い。
2020年8月25日facebook記事より