永忠が嵯峨天皇にお茶を差し上げた舞台となった梵釈寺はどこにあったのでしょうか?
場所に関しては、同じく古代寺院であった崇福寺跡の南尾根建物群、南志賀廃寺跡など諸説あるものの、崇福寺の近くにあったと考えられている。
延暦5年(786年)に桓武天皇が長岡京の無事完成と曽祖父天智天皇の冥福を祈るために創建したとされる。当初は四天王を祀ったことから四天王寺とも称されたが、延暦14年(795年)に梵釈寺と改名されて本格的な寺院建設が始まった。等定・常騰・永忠・徳円など高名な歴代住持を輩出し、また延暦寺が近くにあったことから最澄もここを訪問して学問をしたとされている。また、桓武天皇が大寺の待遇を与え、嵯峨天皇が弘仁6年(815年)に近江に行幸した際にここで当時の住持・永忠から茶を献上されて同寺の清浄を保つように命じたことや宇多天皇が度々訪問したことなどが記録されている。後に最澄ゆかりの天台宗の寺院となり、12世紀には園城寺の末寺となるが、延暦寺と園城寺の対立が激化すると、両寺の近くにあった梵釈寺も抗争に巻き込まれ、長寛元年(1163年)には延暦寺の攻撃によって炎上し、以後は衰退の一途を辿り、鎌倉時代末期には廃寺となったとされています。
園城寺は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山の寺院。7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興されました。円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになり、比叡山宗徒による園城寺の焼き討ちは規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るといいます。
度重なる焼き討ちのせいで、円城寺境内に群生する古茶樹群がいつからのものかという資料は残っていないようです。
園城寺の国宝光浄院は室町時代に山岡資広が十円坊跡に建立したのがはじまりで、現在の建物は1601年に建築されたものです。織田信長、豊臣秀吉、円山応挙など滞在したと言います。
2020年8月28日facebook記事より