国宝大浦天主堂と殉教の物語@長崎

日本と西洋文化出会いはポルトガル大航海時代、鉄砲が伝来して、戦国時代の勢力図が変わり、ザビエルが伝えたキリスト教は九州地方を中心に広がりました。
やがてキリスト教が禁教となり、海外との交流も長崎の出島に絞られ、オランダと中国のみと貿易を行うようになりました。
1634年出島建設、1636年混血児等マカオ追放、1637年島原天草一揆発生。一揆は籠城三ヶ月後鎮圧され、天草四郎の首は出島前にさらされました。
島原天草一揆で長崎中心部のキリシタンは消えましたが、浦上や外海のキリスト信仰を日本人伝道者バスチャンがささえました。殉教する前に残したバスチャン暦とバスチャンの予言は後世の潜伏キリシタンの心の支えになりました。
皆を7代までわが子とする。
その後はコンヘソール(告白を聞く神父)が黒船で来る。
およそ7代後、黒船来航。1865年日本二十六聖殉教者聖堂(大浦天主堂)は世界宗教史上の奇跡信徒発見の舞台となりました。
大浦天主堂献堂から一ヶ月後、男女合わせて15人ほどの一団がやって来て神父に言いました。「私たちは、あなた様と同じ心です」指導する司祭がいない禁教260年を経て、日本にキリシタンの子孫が残っていたのです。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界文化遺産となったのは、2018年のことです。
<長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産>
・原島跡
・天草の﨑津集落
・黒島の集落
・外海の出津集落
・外海の大野集落
・平戸の聖地と集落
・野崎島の集落跡
・頭ヶ島の集落
・奈留島の江上集落
・久賀島の集落

2020年9月19日facebook記事より

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