Assam1864 歴史

アッサムの人口は、圧倒的なヒンズー教徒、イスラム教徒、ベンガルからの移住者と少数民族からなります。
共通語はアッサム語(サンスクリット語とベンガル語と類似しています)ですが、イスラム教徒はウルドゥー語を話しました。
英語が持ちこまれると、アッサムの高いカーストで普及しました。
アッサム人であるアホム族は勇敢な民族で、土地の主権を守るためにムガール帝国と何回も戦いました。
宮殿と寺院の残骸は、残った文学の他に、アッサム人の豊かな文化遺産です。
18世紀、権力闘争、宗教問題、内乱、ビルマの進行と、さまざまな危機によって王国は安定を保てなくなり、英国の庇護を求めるほど弱体化しました。
1826年のヤンダボ条約によってアッサムは実質的に英国支配下となりました。
英国は商業的な野心を成し遂げる目的で、西洋の法律制度の元、平等の権利をアッサム人に与えました。そうすることによって、英国人は間接的にアッサム人が優遇されているという印象を持たせたのです。
英国人がとった改革処置は間接的に茶栽培にとっての利益となりました。
アッサム人も茶園で働きましたが、茶園の増加速度に適応しませんでした。茶園数の増加による労働者不足は、茶園にとって悩みの種になりました。英国人は、茶園で働く労働者を連れてこなければならなくなりました。
しかし英国人が外から連れてきた労働者はアッサムの気候に慣れることができずかなり多くが死にました。
出稼ぎ労働者には茶園についての知識がなく、実際のところお金のためにアッサムに来た者がすべてでした。
英国人はアッサム語が不案内であるため、アッサムの監督官に依存しなければなりませんでした。そのなかからアッサム人のティープランターが誕生していくことになります。
茶園ビジネスは、多くのアッサム人と英国人の人生に影響を与えました。

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