北京東路2号
広播大楼は外灘(バンド)建築群のひとつで、その年建築する時、中国の伝統の北側にあり南に向いている習慣に則って、正門は北京路に置かれました。
解放前、1920年代に作られたこのビルは名前をグレンラインビルと言いました。
このビルを建てた怡泰公司は十数隻の汽船を所有し、上海-日本-香港-シンガポール-ニューヨーク-ロンドン-ジュネーブに定期便を持っていました。 これらの汽船はすべて格林(グレン)字を付け航行していたため、怡泰公司は別名グレン汽船と呼ばれ、外灘にビルが作られるとビルはグレンラインビルと呼ばれました。
1922年に落成した7階建てビルの外観はイギリスの新古典派ルネッサンス様式です。
太平洋戦争爆発後、日本軍が上海に進出するとビルは日本正金銀行が使用しました。 終戦後、ビルは米軍が海軍憲兵機関や軍郵便局を設置しました。
このビルは1920年代に建てられたものですが、すで水ポンプ、暖房用スチーム、ボイラー、発電機、エレベーター、消防ポンプなど施設は非常に整っていたといいます。
1951年3月の上海人民ラジオ放送局がこのビルに引っ越したことから、その後数十年間、上海人は北京東路2号から聞こえてくる音に慣れ親しみました。 人々は放送局が1996年10月に虹橋路の新しいビルに引っ越すまでこのビルを“放送ビル(広播大楼)”と呼んでいました。
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