<上海建築2004&2014>大世界(ダスカ)人民遊楽場、青年宮

大世界2006

大世界2014

西蔵南路1号
大世界(ダスカ)について語る前に、深い関わりを持つ新世界のことを紹介しなくてはなりません。
物語は漢方薬屋店主黄楚九と不動産ブローカー経潤三が1912年に上海で最初の遊楽場である楼外楼を共同で設立したことから始まります。つづけて1914年、二人はさらに大規模な新世界を設立しました。新世界は南楼と北楼に分かれ地下道で結ばれており、さまざまな娯楽を体験することができる施設として知られるようになりました。 ほどなく経潤三が亡くなり、その妻汪国貞がその財を受け継ぐと、独断専行が行なわれるようになり黄楚九は排除されてしまいます。
黄楚九は新たなるやり直しを決意、福州路一帯に新世界よりも巨大な遊楽場を計画しますが、空き地が無いことや建物を取り壊すにも莫大な立退き料がかかってしまうため計画は遅々として進みませんでした。 このことはフランス領事の知るところとなりました。 当時、フランス租界であった延安東路と西蔵南路一帯は閑散としており、もし大型遊戯場ができたならば賑わうことは必至です。 げんに静安寺街に新世界ができると、付近の商業は栄え、ホテル、料理屋、茶館は潤ったのです。 フランス租界を活性化させるため、フランス領事は黄楚九に15000㎡の土地を108000元という破格の値段で譲りました。
こうして大世界は東洋一の規模を誇る遊楽場として1917年に完成します。 対決色が強く打ち出されているのはその名前からも分かります。黄楚九が考えた開業日は7月14日でした。7月14日はフランス革命記念日で、フランス租界ではその晩にフェスティバルが行なわれることが恒例であったため、多くの人が街にあふれかえり、その人の流れが遊楽場へ向かうと考えたからです。 こうして大世界は7月14日に正式開業し、結果は黄楚九の考える通りになりました。 大世界は当初二階が煉瓦、木造造りで、一階は発券所が並び、二階回りには廊下と手すりが巡られ、三階は欄干に囲まれた高台が据えられていました。商売繁盛で手狭になったため1924年に新築されることになります。周惠南が設計した大世界は中国人建築士が設計した西洋式建築の早期作品と言えます。新しい大世界は四階建てで新世界と比べると二倍以上の規模を誇るものとなりました。 しかしそれでは黄楚九の遺恨は治まらず、四階の上にまた四層の高さの塔を建てて55mの高さとしました。 当時、西蔵中路は高い建築物が多くなかったため、新世界の入口に立つと、大世界の塔が目に入ります。夜になると光り輝き、さらに一目を引きました。 以後、上海においてネオンサインが最も目立つ場所として知られるようになります。 黄楚九は常に新しいアイディアを考え出し、多くの人を大世界に呼込みました。
新世界は黄楚九によって倒産に追い込まれ、休業を経てデパートに生まれ変わりました。黄楚九は復讐を果たしたことになりますが、さまざまな経営に手を伸ばしすぎ、資金が不足に陥ってしまったせいで自らも破滅を招きました。
大世界は1931年に上海の闇の帝王、チンバンの黄金栄によって70万元で売り渡され、看板に“栄記”の二字が加わり、それ以後この遊楽場は売春や麻薬、賭博などの犯罪行為の巣窟となりました。 1954年、大世界は市文化局に接収管理され、その名を人民遊楽場に改名しました。 文化大革命中には休業を余儀なくされ、1974年に青年宮と再び改名しますが、1987年に大世界の名を回復しました。現在も遊楽場として昔ながらのプログラムが行なわれる以外にも、時代に即した新たな演目などが加えられています。

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