姜阿新(1901~1982)
金廣福墾號リーダー姜秀鑾(1783~1846)の子孫。台北国語学校卒業後、明治大学に留学。
34歳で製茶工廠(後の永光公司)を創建、三井農林やジャーディン・マセソン商会との紅茶の生産輸出で一時代を築く。
姜阿新と高級車
日本代理店を通じてアメリカパッカード製高級車を個人輸入で所有していました。当時、日本では国産自動車は実用段階に至っておらず、外車を購入するにもドル為替レートが固定相場制(1ドル360円)だったため、自家用車を所有するということは非常に贅沢なことでした。新竹州(かつて台湾の地方行政区分だった五州三庁の一つで、現在の新竹市、桃園市、新竹県と苗栗県を合わせた地域)で登録されていた自家用車が10台に満たなかった時代のことです。
姜阿新と魚釣り
釣の趣味が高じて、餌付けと技術指導のために雇ったお抱え釣師には、普段、製茶工場の手伝いで時間をつぶしてもらっていたと言います。
その釣りに関するエピソードがひとつあります。
姜阿新と岩倉一馬は互いに背中を預けられる間柄で、仕事を越えた友情が存在したと言います。姜阿新にとって岩倉一馬は莫大な富をもたらす人、岩倉一馬にとって姜阿新は大切なビジネスパートナーであったけれども、両者がそのことに対して私情をはさむことはありませんでした。金品のやりとりは無きがごとく、中華習慣である紅包(ご祝儀)は言うに及ばず、日本習慣である御歳暮のやりとりがかろうじてあったという、傍から見れば型にはまらない関係でした。姜阿新によると、ある年、台北の川で釣れた大きな鯉を、運転手に岩倉の社宅に届けたのが受け取ってもらえた唯一の例外だったそうです。
姜阿新とサラブレッド
事業が成功すると、馬を飼うようになって、さらに馬主として競馬に参加するようになったのは、二十歳の頃、東京で競馬場に通ったのがきっかけでした。一頭、また一頭と、血統の良いサラブレッドを購入して、茶工場の近くに5頭収容できる厩を建てて、競馬場の紹介で来た専門知識を持つ厩務員に馬の世話をさせました。阿新が持ち馬に名付けたのは、紅茶、緑茶、烏龍、包種、玉露と、サラブレッドらしからぬ名前。夢に夢を重ねる、浪漫に人生をかけた人でした。
~2024年6月13日facebook記事より