新井耕吉郎(1904〜1946)は1926年に日本統治下の台湾に赴任して、台湾総督府中央研究所平鎮茶業試験所に勤務しました。1941年に台湾総督府農業試験場支所長となり、紅茶品種の栽培に尽力し、セイロン式紅茶廠を設立して台湾紅茶産業の発展に寄与しました。任期は第二次世界大戦中で、資金不足と労働力不足の中、紅茶の研究と普及業務にあたりました。
1945年太平洋戦争が終結すると、支所は台湾政府に接収され、支所長も台湾人の陳為禎が就任します。耕吉郎は最期の日本人支所長となりました。家族を日本に帰して一技師として台湾に残り、仕事を続けていましたが、マラリアに感染して42歳の若さでこの世を去りました。
娘が遺灰を日本に連れ帰る途中船が遭難して、彼女は命拾いをしましたが、遺灰は海に沈んでしまいました。
陳為禎が耕吉郎を偲び、1949年に碑を建てました。
~2024年6月4日facebook記事より