用瀬

用瀬町の名物は、流しびなと用瀬茶。流しびなとは、旧暦の3月3日に男女一対の紙雛を舟にのせ、菱餅や桃の小枝をそえて、災厄を託して千代川に流し、無病息災で一年間を幸せに暮らせることを願う民俗行事です。1985年に鳥取県の無形民俗文化財に指定されました。このことから用瀬は流しびなで有名となり、町では流しびなの館をつくり、展示室には江戸時代から現在までの500体近くの各地の雛人形を展示しております。用瀬茶は用瀬で江戸時代から本格的に栽培・生産されている特産茶です。現在に至るまで無農薬・有機栽培で生産しており、昔から変わらぬ味を提供しております。
用瀬茶
用瀬茶はあくま でも売り物ではなく、自分で育て自分で飲む作物という立場にありました。
そんななか、用瀬に住むとある男が1850年ごろに用瀬茶に目をつけて、それで 用瀬を活性化させようと考えました。その男の名前は亀屋四郎三郎です。そして彼は 1853年に宇治から茶師を招いて商売としての製茶を本格的に開始しました。製茶 産業は順調に進み1855年には亀田屋茶店が開業します。また、1868年には5 0人体制の製茶工場を建設し茶の生産規模はますます拡大していきました。1872 年には黒字を出して茶産業は用瀬で重要な立ち位置にまで発展しました。そして更に この勢いをつけようと四郎三郎は神戸港より用瀬茶の輸出を行いました。 ……しかし、これがいけなかったのです。貿易は大失敗し、1874年には四郎三郎 は家財が傾くほどに負債を背負ってしまいました。それでも周りの茶業者は四郎三郎 を信じ、また彼自身も用瀬茶再興のために粉骨砕身したことによって製茶業者は用瀬 内で20戸くらいまで増えました。
そんななか、国からの意向で紅茶を栽培する事が奨励されましたが、四郎三郎が病 に倒れたこともあり、用瀬茶は紅茶に生まれ変わる事を断念したのです。
それから用瀬茶は次第に産業として下火になっていく結末を迎えます。けれども、 亀屋四郎三郎の行った用瀬茶の一連の事業は政府や朝廷にまで耳に入り、朝廷からの 褒章や西園寺公望からの奉勅を受けました。商売で成功を収めることは出来ませんで したが亀屋四郎三郎の弛みない努力は、用瀬茶を日本の銘茶にするまで発展させたの です。
茶揉み歌碑
「もんでのばして 色さえよけりゃ どこへ行きてもお茶師さま」 用瀬では、もともと自家用の番茶しか栽培していませんでしたが、亀屋四郎三郎氏が私財を注いで煎茶の製茶を奨励し、最盛期には海外へも輸出されるほどでした。お茶師の仕事は蒸した葉をホイロ(焙炉)に入れ、手で揉みながら乾かしたもので、揉む作業が重労働だったため、周りの選子(葉を選別する婦女子)が歌を唄って威勢をつけたといいます。

2020年9月3日facebook記事より

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