元和三年一月四日、といえば、今からざっと二百二十年ばかり前のことである。中川佐渡守という大名が、供まわりの者をつれて、年頭の回礼に出た途すがら、江戸は本郷白山あたりの、とある茶店に立ち寄った。一同が茶店で休んでいるうちに、佐渡の家来で、名を関内と呼ぶ若党が、たいそうのどが乾いたので、大きな茶のみ茶わんに手ずから茶を一ぱい汲んだ。さて、茶わんを手にとりあげて、ふと関内がなにげなく茶わんのなかを見ると、透きとおった黄いろい茶のなかに、自分の顔でない顔がうつっている。驚いて、関内はあたりを見まわした。が、自分のそばにはだれもいない。茶わんのなかにあらわれた顔は、髪かたちから見ると、どうやら若い侍のようである。ふしぎなことにその顔がいかにもありありとしていて、しかもなかなかの美男である。顔だちが女のようにやさしい。どうも生きている面輪のようである。その証拠には、両眼やくちびるがうごいている。怪しいものがあらわれたのに、関内は眉に唾でもつけたい心持で、その茶を捨てると、茶わんのなかをしさいに改めてみた。茶わんは、べつだん手のこんだ絵柄や模様などのついていない、ごく安茶わんである。関内は、有り合うべつの茶わんをとって、もういちど茶を汲みかえた。すると、その茶のなかにも、やはりさいぜんの顔があらわれているのである。そこで関内は、こんどは茶を新規に淹れかえてもらって、そしてその茶を茶わんについでみた。すると、見おぼえのない不思議な顔は、やはりその茶のなかにも現れている。しかも、こんどは何やら愚弄するような笑みを浮かべているのである。関内は、それでもじっとこらえて驚かずにいた。「何奴かはしらぬが、もうその手には乗らぬぞ」関内は、そうつぶやくように口のうちでいうと、その茶を、顔ぐるみぐっと飲み干して、それから出かけた。途々(みちみち)、なんだか幽霊を一人嚥み下してしまったような気がしないでもなかった。おなじ日の宵の口のことである。関内が屋敷の詰所に詰めていると、ふいにそこへ、見も知らぬひとりの客が、音も立てずにすっとへやのなかへはいってきたのに、関内はぎょっとした。客はりっぱな身なりをした若い侍である。それが関内の前にぴたりと坐ると、軽くお辞儀をしてから、こういうのである。「身どもは式部平内と申すものでござるが、今日初にお目にかかり申した。お手前、それがしをば、お見知りなさらぬようでござるな」いう声は低いが、それでいてよく通る声である。関内はふいとその顔を見て、あっと驚いた。目の前にいるのは、自分がきょう、茶碗の中に見て飲み下した、あの薄気味の悪い、美しい顔をした幽霊なのである。かの幽霊がにやにや笑っていたように、今この客も、やはりにやにや笑っている。が、その笑っている唇の上にある両眼が、まじろぎもせずにじっと自分をみすえているのは、明らかにこれは挑戦であり、同時にまた侮辱でもあった。「いや、拙者、とんとお見知り申さぬが」関内は、内心怒気を含んで、しかし声だけはつとめて冷ややかに、そういってやり返した。「それよりも、お手前、当屋敷へはどうして忍び入られたか、その仔細をたまわりたい」「ほほう、それがしにお見おぼえがないといわれるか」客はいかにも皮肉な調子で、そういうと、そこし詰め寄りながら、「いや、それがしをお見おぼえないとな。したがお手前、今朝身どもに、非道の危害を加えられたではござらぬか」関内はたちまち佩いていた小刀に手をかけると、客の喉笛目がけて、激しく突いてかかった。しかし、刃先には何の手応えもなかった。とたんに、闖入者は音も立てずに、さっと壁ぎわに飛びのいたかと思うと、その壁をすっと抜けて出て行ってしまった。壁には、客の出て行った跡らしいものは、何も残ってなかった。幽霊は、ちょうど蝋燭の灯が行灯の紙をすかすように、壁を抜け出て行ったのである。関内がこのできごとを報告したとき、朋輩の衆はその話を聞いて、驚き、かつ、怪訝な思いをした。事のあった時刻には、屋敷では、だれも人の出入りをした姿は見受けなかったし、また、中川の家来のうちには、「式部平内」という名前を知っているものは、ひとりもいなかったからである。明くる晩、関内はちょうど非番に当たっていたので、両親といっしょに家にいた。すると、夜もかなりふけたころ、だれやら客がきて、ちょっとお目にかかって申し上げたいことがあるといっていると、取り次がれた。関内が大刀をとって、玄関に出て行ってみると、なるほど、侍とおぼしい帯刀の男が三人、式台の前に立っている。三人の男は、関内にていねいに辞儀をすると、そのなかのひとりがいった。「われわれは松岡文吾、土橋久蔵、岡村平六と申す、式部平内殿の家来の者でござる。夜前主人がまかりたる節、貴殿は小刀をもって、主人に討ってかかられた。主人は深傷を負われたゆえ、余儀なくその傷養生に、今より湯治におもむかれるが、来月十六日には御帰館になられる。そのおりには、きっとこの恨みを晴らし申すぞ」関内はいうを待たせず、いきなり大刀を抜いて飛びかかりざま、客を目がけて左右に斬りなぐった。が、三人の男は、隣家の土塀のきわへさっと飛びのくと見るまに、影のごとく土塀を乗り越えて、そのまま・・「茶店の水碗若年の面を現す」
2020年9月30日facebook記事より