石鎚黒茶

曾我部さんの掌

曾我部ご夫妻

30年前の茶葉乾燥風景

30年前の曾我部家茶風景

平家の里石碑

曾我部旧家縁側

石鎚山山茶樹

30年前の茶葉蒸熱作業

現在販売されている石鎚黒茶のひとつ

~平家の里石鎚山に生きた石鎚黒茶最期の伝承者~
大きな夢を抱いて新しい時代を開いた平清盛は伊勢平氏棟梁平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁として保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となりました。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の礎を築き、 日本初の武家政権を打ち立てましたが、その独裁が大きな反発を受け、源氏による平家打倒の治承・寿永の乱が起こります。この乱は平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけて6年にわたる大規模な内乱で、古代最後で中世最初の内乱として歴史に刻まれています。1181年2月清盛の病没によって強力な指導者を失い弱体化してゆく平氏は、寿永2年(1183年)7月安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れましたがそこからも追われて、海上を流浪した末に阿波国の田口氏に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置きました。源氏が水軍を保有していなかったため四国攻めに踏み切れずにいる間、平氏は有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握って力を蓄えました。
しかし時代の趨勢には逆らえず、『平家物語』の名場面那須与一が扇の的を射たエピソードで知られる屋島の陥落によって平氏は四国で敗れました。これによって、四国に落延びた平家落人伝説が数々生まれました。弘法大師空海が修行した地として知られる山岳信仰の霊山西日本最高峰の石鎚山もその伝説の舞台のひとつです。
ここからは、90年以上平家末裔として石鎚山で生きた曾我部正喜氏の一時間半に及ぶ一人話、彼の記憶に残る石鎚山“平家の里”の最期を以下にそのまま残します。
大正生まれの曾我部正喜氏が最初に村の終末を感じたのは昭和24年くらいのこと、裕福な人たちが去っていった時のことでした。どこの集落でも裕福な人たちが先に出て行く。そして昭和30年頃から、特に昭和38年豪雪では正月の4日から2月いっぱい毎日毎日雪が一ヶ月以上も降って、山仕事を生業とする人は仕事ができず、このままここにいたら飢え死にしてしまうと下で土木作業に従事するようになり、ここでガクッと人口が減りました。こうやって人が減ったので、子供がおらんようになって、小学校がのうなったのが昭和52年、17軒くらいの家が残るのみとなりました。それからも、わずかに残っている人が今年一軒、また来年は三軒といって、どんどん減ってゆき、平成の12、13年になったら、一軒、誰もおらんようになりました。人がおらへんようになって、平家の残党以来の伝統を残すのが自分の役目と強く感じるようになり、その責任も重いので、生きている間は上にいなければならないと90歳まで山にいたわけです。
今年が平清盛生誕900年。だから、早稲田大学の先生が、高知県の落人の研究をしていると、比べたいと訪ねてこられるのを、お断りしました。高知県は落人でしょうけど、こちらは正規の残党です。滅びるこの時、「山を下りる時には絶対に連絡して下さい、石鎚の最期の歴史だから必ず撮りにいきます」愛媛朝日テレビの方がそうおっしゃったけど、夜逃げをしました。落ちぶれ果てたところをテレビで宣伝されたら面目次第もない、絶対に映りたくありませんでした。
石鎚村は誰もおらんようになると感じた時に、何か残しておかなければならないと、もし完全に消滅してもいつか誰かが道標として読んでくれないだろうかと“平家の里”石碑裏に「庭樹不知人去尽 春来還発旧時花(庭樹は人の去り尽くすを知らぬ 春来りてまた開く旧時の花)」と漢詩を彫りました。それから、川向こうに明治維新になって文字も読めないようでは生きていけないと集落の寺子屋の先生をしたお爺さんの隠居小屋がありました、そこに「芳樹無人花自落 春山一路鳥空啼(芳樹に人無く、花は自ずから落ち、春山一路、鳥空しく啼く)」とお爺さんに報告するつもりで残しました。そして梅の木の根元にも「遠上寒山斜石径 白雲生処有人家(遠く寒山に登れば石径斜めなり、白雲生ずる処人家有り)」を。下では白雲も何も生じるものはないけれど、あそこに居た時はしょっちゅう下から湧いてきました。
千足山村の知識階級の人が千足という語源は「奥へ奥へと山を入って村がある」ということだと言ったといいます。私は小学校しか出ていない、だけど人がおらんようになって、横峯の住職さんが京都の本山に行く前に私を教育委員に推薦してくださったことで、教育委員として村の起源も分からないようではいけないと研究したのです。石鎚山脈の山村を調べていたら、昭和35年ぐらいに作られた地図に千足という名前の村が4ヵ所、香川県の引田港の少し奥にひとつ、高知県吉野川流域にひとつ、もうひとつが石鎚山に、そして砥部にも、その小さな千足が市町村合併した後も不思議な力が働いているかのように、3ヵ所(石鎚山の千足は石鎚村に改名)は消えませんでした。なぜかと考えると、都と九州を結ぶには、海のほうは村上水軍と河野水軍に閉ざされて通れないから、四国の屋根を東西をほぼ等間隔に貫いた4つの千足がそれを果たす役割をしたのではないかと考えられます。九州の平家と連絡をとってまだ戦うつもりだった、だから、そのために石鎚山に村を作ったのが私の先祖です。不思議なことには、四国は小さな島だけれど道前道後を軍勢が通ったら山の上から見えるんです。また、瀬戸内海を通る船、それも山の上から良く見える。私の村では道前道後の軍勢と瀬戸内海を通る船を見て連絡するためにあそこに陣取って人知れず暮らしていたのです。石鎚山の懐に人が住んでいたことは誰も知らなかった、山並みが入り組んでいるからわからなかったのでしょう。鎌倉が滅びて、南北朝時代に新田義貞の弟脇屋義助が吉野の軍勢に呼応すべく1342年、四国で軍勢を集めるべく四国西国の南朝方大将として今治浦に着任したけれどまもなく病没しました。その今治にも平家の館があったけれど、彼らも私たち祖先の存在を知らなかったのです。
平家の軍勢が四国に散ったのは、栄西禅師がお茶を持って帰った頃。栄西から遡ること350年、弘法大師が山々を巡りお茶を伝えたという説があるけれど、その頃石鎚山に人は住んでいなかったのだからそこに茶文化が残っているとは思いません。先祖が生きた証として石鎚黒茶の製法を伝えてきたのは平家の末裔である私たちです。この地の平家の文化遺産は石鎚黒茶と愛媛県最古の民謡、この2つです。石鎚山民謡『お山の水』で謡われている滝は、大雨が降った後今まで見なかった人跡未踏の地に突然那智の滝とそっくりの滝が姿を現し、それを見た平家の人たちがこれは都に帰りたい我々のために熊野権現が示現してくれたのだと思ったそうです。それが民謡の起源です。民謡の踊りの手は、勧進帳の舞台となった安宅関で、弁慶が平家を追った戦いに思いを馳せて披露した延年の舞に良く似ています。県がそれらを文化遺産登録申請して、今3団体が石鎚黒茶を作ろうとしていて、関係者が年に何回か家に訪ねて作り方を教えて下さいと話を聞かせて下さいと来るけれど、質問にだけお答えしています。
愛媛県で石鎚黒茶、高知県で碁石茶、徳島県で阿波晩茶がまとめて文化遺産として登録されることはテレビ放送で知ったのだけれども、香川県の先生が3つのお茶を順に飲んで、石鎚黒茶を飲んだら酸っぱいと茶碗を置きました。今は大気汚染で葉が汚れているから、あのままでは発酵しないです。彼らは今かなり綺麗に葉を洗っているけれど、上では葉は洗わなかった。梅雨に激しい雨が降って、その雨で洗われた葉を採った、それは平成15年以前私が作っていたころの話、後になったらどんなにしてお茶を作ろうとしても作れないようになり、私はお茶を作るのをやめました。上のほうでも発酵の酵母は死んでしもうたはずなんです。酵母がおらんかったら、発酵しないでしょう。庭先に筵を広げてお茶を乾すと、周囲に良い香りが立ち込める、学校の先生が下から家庭訪問で上がってきて、「芳ばしい香りがするので何の香だろうとここまで来たら、お茶だったんですね」と、村の入り口に入ったらお茶を乾す香りが一面に漂っていました。そしてまた、お茶を茶袋に入れて沸かした時、台所も家も芳ばしい香りで一杯になりました。それは限られた区域の中で何百年も純粋に培養されてできたものなのでしょうね。県の工業センターが二年間研究して、石鎚黒茶は石鎚山から外に持ち出したらその酵母はつかず、その風味を再現することは無理だと判断しました。なぜかと言うと、本当の純粋な石鎚の山茶というのは、葉が小さいのです。現在作っている人たちのように枝を切ったりせずに葉っぱだけを採るのだけど、一人前の大人が葉を一日中摘んだら十貫(37.5kg)、私は小学校の時からお茶を摘んだのだけれど、大きな葉なら簡単なんだけれど、小さな葉はなかなか集まらない。それで祖父に大きな葉をつけるお茶の木を植え替えたらどうかと訴えたら、その時に祖父がこの山の木の葉を使わなければこの風味はつかないよと教えてくれたのです。それが石鎚山茶です。
黒茶は昔山間部どこでも作られていました。山地でも上と下では温度が違うから、下で作ったものは上のような味はつきません。標高が低いところで作られたお茶、それは黒茶ではなく腐らし茶だと言われ、あまり売れなかったらしいです。下で作ると、現在標高300mぐらいの大豊町で作る今の碁石茶のような味しかできないのです。カビが付いたときに碁石茶は青とか黒になる、それが過発酵しているということです。そういうような色になる一歩手前で取り出してあげて冷ましたら、あの濃厚なお茶がさっぱりしたお茶になるでしょう。土佐のもっと山奥で作られていた頃は碁石茶も美味しかったんですと言うけれども、私はもう戦列を離れた人間ですから、もう申し上げることはありません。
四国の平家落人伝説が残る場所に伝承された他所にはない不思議なお茶、それらのお茶は文化遺産として残されようとしています。親から子へ教え伝えられたお茶作りの業を平家落人として生きた人々の証として残すべくお茶を作り続けた人、別れの握手で握ったその手は柔らかくて温かいものでした。

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