出雲大社と出雲そば

縁結びの神・福の神として名高い出雲大社は、日本最古の歴史書といわれる『古事記』にその創建の由縁が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社と呼ばれていました。
主祭神はだいこく様として馴染みの深い大国主大神。
『古事記』に記される国譲り神話では、大国主大神が高天原の天照大神に国を譲られます。そのときに造営となる壮大な宮殿が出雲大社の始まりといわれています。
出雲の地が蕎麦処となった理由としては、奥出雲地方(出雲国南部=現在の雲南市・奥出雲町など)において、寒さに強く収穫までが短い上、痩せ地でも栽培できる蕎麦の栽培が栄えたこと、あるいは松江藩初代藩主の松平直政が信濃国松本藩から国替えとなった際、信濃からそば職人を連れてきたことで蕎麦食が定着し、江戸時代後期になってこの地域の産業・文化を振興した名藩主として不昧公(ふまいこう)と呼ばれ親しまれている7代松江藩主の松平治郷が、当時「高貴な人はそばを食べない」とされていたにも拘らず、不昧公はお忍びで夜に屋台の蕎麦(いわゆる夜鷹そば)を食べに行くほどの蕎麦好きでこだわりの食べ方を語っており、茶人としても茶懐石に蕎麦を取り入れその地位向上に一役買ったためと言われている。
出雲地方では奥の院詣り(出雲大社、日御碕神社、美保神社、大山寺、一畑寺)の際に、門前のそば屋で蕎麦を食べるのが庶民の楽しみであった。また「神在月(かみありづき)」に行われる「神在祭」(通称「お忌みさん」)の際、神社の周りに屋台のそば屋が立ち並び、身体の温まる「釜揚げ」(後述)で新蕎麦を食べた[4]。「釜揚げそば」は、出雲を去る神々を見送る儀式「神去出祭(からさでさい)」にちなんで、「神去出蕎麦」また「お忌み蕎麦」と呼称されることもある。
割子そばは、重ねられる丸い漆器に茹でた蕎麦を盛って出したもの。三段重ねとなったものが一般的で、別途薬味と出し汁の容器がつく。これは江戸時代に松江の趣味人たちがそばを野外で食べるために弁当箱として用いられた形式が基となっている。出雲地方では昔から重箱のことを割子と呼んでおり、当時の割子は正方形や長方形、ひし形などさまざまな形であったが、
食べ方にも特徴があり、他地方では蕎麦をだし汁の中に入れるのに対し、だし汁自体を器に入れ(このため、だし汁を入れる猪口の口が狭くなっている)、その上に青ねぎ、海苔、大根おろしと削り節などの薬味を載せて頂きます。三段重ねの場合、まず一番上の割子にだし汁を入れて蕎麦を食し、食べ終わったら残っただし汁を二段目にかけて食す、というふうに、だし汁を使い回しながら上から順に食べてゆきます。

2020年9月5日facebook記事より

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