熊野古道中辺路より熊野詣

・闘鶏神社
武蔵坊弁慶の生涯は「義経記」や「弁慶物語」などを基に伝説として語られることが多く、実態は明らかではありませんが、田辺は弁慶生誕の地として有力視されています。源平合戦の頃、当時最強と言われた熊野水軍を率いていた熊野別当・湛増(弁慶の父とされる)は、源氏と平家の両者から援軍を求められました。どちらに味方するか決めかねた湛増は、新熊野権現社(現在の闘鶏神社)の神前で7羽ずつの鶏を戦わせて神意を確かめることに。すると源氏側の鶏がことごとく勝利したため、源氏に加勢することを決め、熊野水軍200隻を出陣させました。このとき、源氏側の遣いとして訪れたのが湛増の子である弁慶だったと言われています。
・滝尻王子
かつてはこの王子社が熊野三山の霊域のはじまりとされていました。滝尻王子は、熊野九十九王子社のうち五体王子社にも数えられ、中世に熊野御幸が盛んであった頃には、皇族貴族により奉幣や読経の他、法楽のための里神楽や歌会が盛大に催されました。
・熊野古道、王子が点在
古道に点在する王子は御子神(王子神)を祀った社のことで、上皇や女院の参詣がピークの13世紀初頭には86を数えました。
中辺路
・牛馬童子像と役小角
・近露王子
・発心門王子
「入りがたき御法(みのり)の門(かど)は今日過ぎぬ今より六(むつ)の道に返すな」藤原定家
人々はここにあった大鳥居をくぐって熊野本宮に向かったとのこと。往時はそれなりに大きな王子で、藤原定家もここで宿泊している。歌碑は、発心門という鳥居を越えて、これから神域に入っていくという意味になる。
・水呑王子
・伏拝王子
熊野詣での巡礼が初めて熊野本宮大社を遠くに見て、伏して拝んだという伏拝王子。
峠の茶屋があり、展望には茶畑も。
・熊野本宮大社
大社の主祭神は、家津美御子大神(スサノオノミコト)、歴史を遡ると古代本宮の地に降臨したと伝えられています。
神武天皇が熊野に到着された時、神の使者である八咫烏が奈良まで道案内をしたというエピソードから、熊野三山に共通する「導きの神鳥」として信仰されるようになりました。
・大斎原
三本の川の中州にあたる聖地、大斎原に社殿が建てられたのは、崇神天皇65年(紀元前33年)のことでした。奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。
平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れました。
室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました。男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。
明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受けました。当時は能舞台などもあり、今の8倍の規模を誇っていましたが、明治24年に上四社が現在地へ移されました。

2022年12月6日facebook記事より

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