清水末廣

回漕業静隆社設立に尽力
明治の清水港は、海外輸出品として生糸とお茶が主力で、横浜港に輸入される商品の集散地としても重要な位置を占めていました。中でも製茶の輸出は、一八七五年(明治八年)の横浜港からの輸出品の39%を占めるほどでした。一八七六年(明治九年)に廻船問屋五代天野九右衛門は、工部省所から蒸気船の払い下げを受け、静岡丸と命名して、横浜との定期船を開きました。同年の七月には、狩野銀六と山本佐十郎らが伊勢の回漕会社の蒸気船を買入れ、清渚丸と名付けて、清水横浜間の物資輸送に当たりました。
静岡産の茶は清水港から北米等に輸出され、横浜と清水の間の航路の充実は新政府にとっても重要課題のひとつでした。こうした中、次郎長は、蒸気船の横浜との定期航路の必要性を清水の旦那衆に説いて回ったのです。そして一八八一年(明治十四年)、横浜の回漕業者と静岡の茶商と清水港の回漕業者の共同出資により、静隆社を設立。所有船は静岡丸、清川丸、三保丸の三隻でした。静隆社は、清水港を日本一の茶輸出港となる牽引役を担ったのです。静隆社の設立に奔走した次郎長は、株主にはならず、あくまでも応援団の一人としての立場を貫いたのです。
1820年
一月一日、駿府国有度郡清水町に生まれる。生家は薪炭を商う薪三(まきさん)。長五郎と名付けられ母方の叔父甲田屋(米穀商)次郎八の養子となる。次郎八の子長五郎というので次郎長と呼ばれた。
1826年
清水港に入港した巨大な異国船と異国人(中国人)を目撃して世界の広さを知る。
中国寧波の貿易船特泰号が遠州吉田港に漂着、船体修理のため清水港に回航される。
1874年
1874年から10年間、富士市大淵で開墾事業。寒冷地に適した茶栽培は困難を極めましたが、お茶以外にも76町歩で開墾し、現在でも次郎長町としてその名が残っています。
1875年
向島に波止場建設が始まる。清水港は巴川の河口港から外海港に変身。次郎長は廻船問屋経営者たちに蒸気船による横浜港との定期航路開設を説く。
1876年
蒸気船静岡丸、清水港と横浜港間に就航、静岡茶を横浜に運ぶ。次郎長は頻繁に横浜に行き神風楼に宿泊し横浜商人と清水港廻船問屋経営者を結び付ける。
1880年
横浜の輸出商、静岡の茶商、清水港の廻船問屋三者による共同出資による株式会社静隆社設立。静岡丸、清川丸、三保丸が就航。次郎長は会社設立に尽力。茶の港清水港の基礎を築く。
1886年
向島波止場の白井音次郎(徳川慶喜家臣)の所有地に船宿末廣を開業。開業披露のため山岡鉄舟は、千本の扇子に揮毫を約束する。
by静岡市制作清水の次郎長物語

~2021年2月25日facebook記事より

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。